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◆ 広報おきなわ12月号(No.402)

沖縄市
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特集 民謡が息づく音楽のまち

コザ時代から沖縄市へ 情熱は引き継がれていく
沖縄をこよなく愛した男 チコンキーふくばる

 「チコンキーフクバル」の愛称で親しまれた普久原朝喜氏は明治三十六年(一九〇三)に越来村字照屋で生まれた。
  父朝儀、母カメ。男子四人、女子五人の上から二番目の長男として。
  ここで、あえて普久原氏について語るのは、琉球民謡の祖とも呼ばれ、また、琉球民謡の最高峰に立つ巨人とも呼ばれているからである。
  普久原氏は大正十二年(一九二三)関東大震災の年に大阪に出稼ぎに出て、紡績工場に勤める。二十一歳の時である。
  普久原氏は幼少の頃から、ジンブナーで働き者だった。沖縄に居た時は馬車持ちゃーをして、各地を「うたい」歩いた。毛遊びー頭としても写真の美貌さから相当のものだったと推測される。

蘇るチコンキーふくばる、永遠に島の心に残る

 十七歳の時にはすでに三線の弾き手として知られていたという。
  大正十四、大阪の水にもなれたそんな時にツバメ印レーベル(一九一九年大阪に創立した日東蓄音器株式会社)から吹き込みの話しがあり「ハンタ原」と「宮古ンニー小」を初
吹き込み。(この曲は、以後も自分の丸福レコードで何回となく録音している。)
  ここで記録にとどめておきたいことは、「ハンタ原」における、三弦の奏法である。以後の三弦弾ちゃーに多大の影響を与えた、カキバンチ(連弾奏法)は、朝喜以前には沖縄三弦にはなかった奏法で朝喜の発明である。
  昭和二年(一九二七)丸福レコード発足。その年は、日本コロムビア、ポリドール、ビクターなど、現在でもビックなメジャーが設立された年でもある。
  その頃、たくさんあった沖縄民謡のレーベルが、今次対戦前でほとんどきえてなくなった中で、ひとり朝喜の丸福レコードのみは、戦後も続けられ、次代へと引き継がれ生き残っている事実は「琉球民謡に対する、並々ならぬ愛情と情熱」もさることながら、自分の仕事に対する責任感とガンバリ精神、そしてなによりもその才能が、大衆が、朝喜にレコードを製作させ続けさせ理由だと思う。そして沢山のうたが生まれた。
  紙面がないので終わる。普久原氏の半世紀にわたる活動は今日の民謡ブームをはじめ新しい沖縄の音楽づくりの下地になっている。また、「軍人節」や「懐かしき故郷」を始め多くの作品が現在も唄い継がれている。
  そのような偉大な人物を輩出したこのまちにはいつも音楽の鼓動が聞こえる。聞こえる。
第1回普久原節大会を記念に普久原朝喜顕彰碑の前で奉納演奏をする琉球國民謡協会の役員ら(11/12)

普久原恒勇さん・生まれると同時に普久原朝喜のもとへ養子に出される。「芭蕉布」や「ゆうなの花」それらは普久原メロディーと呼ばれる恒勇氏作曲の作品。他にも500曲に及ぶ作品がある。

 平成5年、普久原朝喜氏の生誕90年を記念して顕彰碑が建立された。その後平成17年に普久原朝喜賞を設立。今年11月に第1回普久原節大会が行われた。
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