<< [1]
[2]
[3]
[4]
[5]
[6]
[7]
[8]
[9]
[10]
[11]
[12]
[13]
[14]
[15]
[16]
[17]
[18]
[19]
[20]
[21]
[22]
[23]
[24]
>> |
◆ 広報おきなわ12月号(No.402)
|
|
特集 民謡が息づく音楽のまち
コザには歌い継がれてきた唄がある たしかな音楽の鼓動が聞こえてくる備瀬 審査員が困って、二人にあげようとなったらしいよ。(笑) ということは、大体、ユキ姉も含めてちょうど昭和三十年代の初めから終わりまでにほとんどの民謡が出来上がったんですよね。新曲もずいぶん売れましたね。 それでは、何でコザに民謡人が集まりましたか。 登川 コザというよりも中頭郡だね。中頭には大きい、毛あしびーがあった。明け方までやっていたよ。 備瀬 人が集まったのは軍作業との関係もありますか。 山内 あるね。たくさんの人が軍にいたからね。 登川 私も軍あっちゃーしておけばよかったかなー 山内 あんたがわ英語はおぼえきれん。 登川 私は聞くことはできるよ。耳は悪くないから。なんでも聞くよ。意味がるわからんる。 備瀬 少し真面目な話をしましょう。これから民謡をやりたいという人が全国にもたくさんいます。一言ずつどうぞ。 登川 歌するんだったら、まず昔の唄を聞いてください。人の作った唄を難しいからということで、壊さないこと。 津波 そうそう同感。 登川 人が唄を作るということは、簡単なことではないから。それと、少し方言を勉強をしてから、やってほしい。本当の沖縄の方言で歌うんだったら。大和口まんちゃーで歌うんだったら別だが。聞いているとうちなー口が大和口になっているのが多い。 山内 五十音にない細かい音を勉強してほしい。また、発声音。発声が何いっているのか分からないのが多い。 備瀬 声の訓練が足りてないわけね。 山里 やっぱり先生方について基本はしっかりしたほうがいいと思う。 備瀬 ウンジュ(登川さん)がよく言うチンダミができてない人。基本を忘れた人もいますね。 登川 本当に基本はチンダミだよ。調弦は一番大事だよ。八重山、宮古の唄を勉強する場合には、しいて向こうの言葉でするのではなく、沖縄の方言でやってもいい。発声や息遣いの訓練にもなる。 備瀬 唄というのは世の中全部回るわけですから…。大島の唄もいつの間にか沖縄の唄になっているのもたくさんあるし、大島にも逆に沖縄から行った唄もある。唄は旅をするわけだから、自分たちの島の言葉で歌っていいんですよ。自信を持って歌った方がいい。 登川 他の島の発音はできないんだから無理してしなくてもいい。 備瀬 最後に行政に何か言いたいことがあればどうぞ。 それでは私から、座談会をやりながら感じたんですが、唄をやって文化を支えてきたんだけど、今考えると市の一つの財産です。文化や芸能に貢献している人たちの話しを聞くのは有意義だと思うんです。ぜひ、行政は、講座とかなにか一手を考えてほしいですね。 登川 コザはすごいね。今は沖縄市だけど。これだけの民謡しんか、舞踊しんかを育てたんだから。みんな集まりやすい所だったんだね。変な人もいたけど。これだけの文化人とか芸能人とかコザが育てたので、また、私たちもコザの人にお礼をしないといけないね。 備瀬 今日は長い時間、ありがとうございました。はい、次は写真撮影です。 登川 あいぇ、なーま帰れんの。(笑)
沖縄の新民謡は寿命が永いんだよ テレビのチャンネルをひねると、分かるように、沖縄出身のミュージシャンたちの活躍ぶりは目を見張るものがある。 彼らの活躍ぶりを見るにつけ、沖縄の音楽土壌、風土といったものに思いが馳せる。座談会の翌日、備瀬さんに、さらに民謡について話しを伺おうとキャンパスへ向かった。 昨日の続きですよ。沖縄市は民謡の宝庫みたいなところがありますよね。 備瀬 最初はあれさ、山内さんはマルタカレコードの大スターでしょ。小浜守栄さんの後輩が嘉手苅林昌さん。喜納昌永さんもそうだと思う。年はあんまり変わらないけど。普久原恒勇さんが戦後のマルフクを復興した時のリーダーが喜納昌永。四十過ぎて「道の船」でデビューではなかったかと思う。 さらに聞くんですが、なぜ沖縄市(コザ)に集まってきたんですかね。 備瀬 軍作業のせいよ。仕事がなかったから、昔は。軍作業でみんな沖縄市に集まってきたんだよ。 集まったメンバーがたまたま民謡をやるわけですか? 備瀬 当時、山内昌徳さんも小浜さんも炊事だった。あの頃の炊事というのは残飯がもらえたから、その残飯の中にいろんなものを隠して軍から持ってきて、アメリカーのウイスキーの飲み残しとか、ポークとかいろんなものが、食い物なんかも豊かにあったから、ようするに、MPでも中まで手を突っ込んで検査はしないから、全部外に出して、そのご馳走を食べに嘉手苅林昌さんら、その仲間が集まってくる。 終戦直後は民謡クラブというのは? 備瀬 ない。昭和三十七、八年でしょう。 クラブ・メトロとか横文字もあったんですよね。 備瀬 市内にもたくさんあったんだよ考えられないくらい。中の町にも。 現在、市内にはどれだけあるんでしょうか。 備瀬 なんた浜、姫、志情、花ぬ島、かりゆしなど、大体十軒くらい。でも、民謡クラブにもまがいものもあるからね。沖縄市は純粋な民謡クラブ。 沖縄民謡というのは常に新曲が出てくるが? 備瀬 民謡というのは新しいものが生まれないと民謡とは言わないって。日本では新しい民謡が根づかないでしょう。沖縄にしたらゴルフの唄からゲートボールの唄からいろいろある。大和のは伝統音楽。 フォークソングみたいに生まれてきますね 備瀬 民謡のことをフォークと言ううわけだから。民謡という言葉を作った人は森鴎外ですよ。明治の頃に生まれた。沖縄の民謡でもね昔のLPを見ると俗曲と書かれている。古典音楽は古典音楽と書いてあるけど。 単なる民謡と言う言葉ではかたずけにくいですね。 備瀬 市民運動で新しい民謡を作ろうとした佐藤惣之助という人がいる。その人の言葉に「新しい民謡を作ってもその唄は自分より寿命が短い」と言っている。寿命が短いのが新民謡。新民謡で生きているのが日本にもあるにはある。沖縄の千分の一くらい。
 |
(左)座談会終了後の記念撮影。座談会では沖縄の民謡に関する貴重な話が聞けた (右)故嘉手刈林昌さん 沖縄民謡界の大御所、即興詩人、そして流浪の三線弾き。あらゆる言葉で形容される偉大な人物である |
| |
|
<< [1]
[2]
[3]
[4]
[5]
[6]
[7]
[8]
[9]
[10]
[11]
[12]
[13]
[14]
[15]
[16]
[17]
[18]
[19]
[20]
[21]
[22]
[23]
[24]
>> |