<< [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24]  >> 
◆ 広報おきなわ12月号(No.402)

沖縄市
表  紙
我っ達島ゃうたのまち
[ ] [ ] [ ] [ ] [ ]
ちゃんぷるー市場
中学生平和大使
市防災訓練実施
山形最上物産コーナー開設
今月の人
今月のヒストリート
すてきな仲間達
沖縄市の手しごと
2007
沖縄国際カーニバル
フォトニュース
話題 話題
クリーンデイin沖縄市
教育委員会表彰式典
沖縄市戯曲大賞受賞作
市スポーツデイ
くすの木通り感謝祭
シルバー人材センター事業
比屋根小学校 開校準備
子育て講演会
倉敷ダム流域振興促進
三線大交流祭
高齢者SOS対策
サシバ救護リレー
盆栽同好会 盆栽展
第3回ミニ健康展
郷土博物館で企画展
お知らせ
[ ] [ ] [ ]
沖縄市コミュニティバス運行実証実験
 

特集 民謡が息づく音楽のまち

このまちには民謡の下地があるんだ
沖縄民謡には心がある味がある

 第二次世界大戦後、沖縄の復興は芸能から始まったといわれている。戦争で打ちひしがれた沖縄の人たちを元気づけるために、当時の沖縄民政府は役者や地謡の人たちを芸術技官(公務員)に任命し、県民の慰労に努めた。
  娯楽の乏しかった時代、また日本本土への同化政策で肩身の狭い思いしていたウチナーンチュにとって、それはウチナーンチュとしての誇りや心を呼び戻す力となり、沖縄民謡(島唄)や沖縄芝居が一躍脚光を浴びるようになる。当然、沖縄民謡を志す人たちも増え、当時、コザ市園田(現在も)に住んでいた山内昌徳さんの家には、山内さんが米軍の炊事係をしていたこともあり、コザの民謡好きの人たちが自然に集まってきたという。
  故小浜守栄さん、故嘉手苅林昌さん、喜納昌永さん、登川盛仁さんなど、戦後の沖縄民謡を支えてきた錚々たるメンバーだ。
  沖縄市が今も沖縄民謡の中心になっているのは、そういう方々が沖縄市を拠点に活躍してきたからに違いない。

登川誠仁さん
登川誠仁・1932年生。11歳でカチャーシーを弾く。終戦後、16歳の頃から松劇団で地謡見習いとして修業を積む。1954年頃から種々の民謡のど自慢大会やカチャシー大会に出場、数々の賞を受ける。56年、沖縄初の民謡ショーに取り組む。琉球民謡協会会長を6期務め、現在は同名誉会長。沖縄民謡の筆頭格の一人。通称「セイ小」(ぐゎー)。代表作に「忠孝の唄」「緑の沖縄」「なりたい節」。

備瀬善勝さん
ビセカツ(備瀬善勝)・1939年生。
音楽プロデューサー。沖縄音楽シーンのご意見番。キャンパスレコードを経営する傍ら「十九の春」のプロデューサーとしても知られ、これまで1,000曲以上のプロデュースを手がける。

山内昌徳さん
山内昌徳・1911年生。100年に一人の美声と言われ、復帰前に東京でNHKのど自慢大会に出演するなど活躍した。沖縄地方大会第1位で出場し、唄った「ナークニー」は後にヤマチ(山内)ナークニーとまで呼ばれるようになった。幼少の頃から歌・三線に興味を持ち、14歳になると本格的に三線を弾き、17歳にはエイサーの地謡を務めた。現在、琉球音楽協会最高顧問。代表作に「命口説」「酒の罪」「流れ雲」など。

津波恒徳さん
津波恒徳・1927年生。父親が野村流古典音楽の師範でもあったので、物心がついた頃には三線を弾いていた。叔父からは舞踊の指導も受け幼児にして芸能家の片鱗をみせる。初期のラジオやテレビの民謡番組に出演、精力的に活動する。代表作に「ちぶみ」「朝地紺地」「柳情話」。現在は琉球民謡保存会名誉会長。

山里ユキさん
山里ユキ・1937年生。普久原恒勇に師事。65年、「本部ナークニー」を女性で初のレコーディング。77年に民謡大賞を授与。04年に第1回普久原朝喜賞を受賞。代表作に「遊び仲間」「遊びションガネー」「夢の唄」など。高く済みきった美声は広く大衆に認知され、人気、実力を確実なものにした。

備瀬 それでは早速ですが、座談会を始めていきます。まず、山内さんと恒徳さんは、外地からの引き上げですよね。山内先生は、いつ頃帰ってきて、いつから民謡活動を始めたのか、そこから話していただけませんか。
山内 兵隊は中国。
備瀬 満州ではなかったんですか?
山内 中国ですよ、帰ってきたのは昭和二十二年くらい。
備瀬 恒徳先生は大和ですよね。
津波 私は十五年に大和にひんぎとーん。
登川 逃げていたって言うんだよ。
備瀬 帰ってきたのは?
津波 昭和二十二年だったな
山内 恒徳先生は兵隊には行かなかったでしょう。
津波 私には召集令状がこなかった。
山内 逃げていて良かったさ。
備瀬 登川さんは大阪から来たんですよね、戦前ですか?
登川 はいそうです。
備瀬 最初にですね民謡グループをつくって興行したのはいつ頃ですか。
登川 三十一年頃、はじめは恒徳さんと一緒に、後で喜納昌永が加わって三羽ガラスで興業を始めたよ。
津波 伊江島に行ったのは何年くらいだった。
登川 永いよ。何年とかは分からない。永いとしか分からない。
備瀬 だいたい昭和二十五年くらいに興行が始まったんじゃない。
登川 じん(金)があれば、あしばーして、無くなれば芝居して、客がいないと軍にいって、また、じんが入ると、あしばーして、だいたいはよ、みんな(全員)仕事があるわけ、私一人があしばーだったよ(笑)。
備瀬 じゃーあれですね、レコードが盛んになったのは昭和三十年以後ですね。1953年にテレビが始まったんですよ。ウチナーはかなり遅いですよ。
山内 昭和三十三年あたり。大島の朝潮が横綱で出ているわけよ。私は東京でテレビで見たよ。
備瀬 テレビが始まったことにより民謡だけは良くなったでしょう。
全員 そうそう。
登川 朝潮は沖縄にも来たよ。私はあんな大きい人見たことがないから気持ち悪くなって吐きそうになった。小さいからよけいに。
山内 股の下から通れたはずよ(笑)
津波 ユキちゃんはデビューして何年?
山里 三十六年くらい。私が本部の家でアイスケーキ屋していた頃。
津波 第一回目の民謡の人気がわぁーと来たのは、その頃だね、三十七年か。民謡の全盛時代に入るんだ。
山内 ナカマツ劇場で三点賞とったのは、この人たちだよ。
登川 嘉手苅さんと私と、二人で、一番は私がナークニーとか、ハンタバルとかはあの人が。
(左)第1回「普久原朝喜賞」を受賞した喜納昌永さん
(右)沖縄の民謡を歌い継ぐ我如古より子さん
<< [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24]  >>