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◆ 広報おきなわ(bR63)9月号
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特集 豊中市・沖縄市兄弟都市提携30周年 No.2
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信頼のきずなを一層深め、交流の輪を広げよう |
豊中市と沖縄市は姉妹ならぬ兄弟都市らしい。 なんで、また海のない豊中と沖縄が兄弟の絆で結ばれたんやろか。??? |
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豊中市と沖縄市は姉妹ならぬ兄弟都市だという。なんで、きっかけは、いつ頃から、誰がどうして、わからないことがいっぱい。
ここに、読者の疑問などに答えていくコーナー「なんでやねん」という毎日新聞の記事がある。豊中市と沖縄市の「兄弟」都市について答えている。その新聞記事から抜粋して読者に紹介する。
毎日新聞に届いた資料には1964(昭和39)年、豊中市の戦没者・空爆犠牲者追悼式に、コザ市(現沖縄市)から霊石と仏桑華(ハイビスカス)が送られてきたのがきっかけ」とある。しかし、なんで、そもそも石と花が送られてきたのかが、分かりまへん。
「当時を知る関係者の間では知られてる話ですが、印刷物にはなってまへん」と市役所内切っての沖縄通、環境企画課主幹、本岡和巳さん(現在・こども未来部部長)が明らかにする。
1963年ごろ、全国の市長が集まる会合があり、その席上、当時の大山朝常コザ市長(故人)が「この中に豊中の市長はおられませんか」と呼びかけた。豊中市長の代理として出席していた竹内義治助役(故人・66年5月から74年5月まで市長)が応じた。大山市長は「私の息子が大阪大医学部に在籍しており、豊中市内に住まわせてもらってます」と切り出した。竹内助役は、沖縄戦の戦没者の中には豊中市出身者もいて、毎年、追悼式を行っていることなどを話したという。
この出合いが縁で、72年に本土復帰を控えたコザ市は、ヤマト(日本)の行政を学ぶため65年から職員を豊中市に派遣した。それを「豊中学校」と呼んだ。74年、コザ市と美里村が合併して沖縄市が誕生したのを記念し、兄弟都市提携が結ばれる。
ところで、なんで都市間交流でよく使われる「姉妹」ではなく「兄弟」やねん。
本岡さんは「沖縄の格言『いちゃりば ちょうでぇー(出会えば、兄弟)』に由来するのではないか」と推測する。
大山市長は70年、コザ騒動に直面し、竹内市長は千里ニュータウンの用地買収に奔走したともに、いまの両市の基盤を築いた人物。両市の隠れた「かけ橋」ともいえる大山市長の四男朝賢さん=名護市=は「二人とも義理人情に厚いところが似てました」と振り返る。
毎日新聞の記事からの長い引用になった。豊中市と沖縄市の兄弟のきずなの糸が見えてきただろうか。その後三十年間豊中市と沖縄市は兄弟のきずなを強く、深く結びながら、親睦、交流を広げ、深めつづけている。 |
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民レベルでの交流の輪を広げよういちゃりば ちょうでぇーの会の皆さん | | |
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