今月の人

周りの人達への感謝を忘れず日々成長していきたい

237. 比屋根 香好さん(20) 玉城 英輝さん(20)

山田 七海さん

 今月は一月八日に行われた沖縄市成人式で新成人を代表して二十歳の抱負を発表した、玉城英輝さんと比屋根香好さんを紹介する。玉城さんは園田青年会に所属し地域活動にも積極的に参加している。比屋根さんは沖縄中央学園で保育士の資格取得に向け勉強に励んでいる。晴れの門出で抱負発表という大役を果たした二人に現在の心境や将来の夢などを聞いてみた。

―「抱負発表」の大役おつかれさまでした。現在の心境を一言どうぞ。

玉城 極度の緊張で、始まるまではたくさんの汗もかいてしまいましたが、無事に抱負発表が終わり貴重な経験をすることができて良かったです。

―比屋根さんは「抱負発表」だけではなく、式典で市歌斉唱の際に舞台上で指揮も行いましたが

比屋根 友達がすぐ目の前にいたので、緊張して体が熱くなってしまいましたが、みんなに支えられて無事にやり遂げることができました。いい思い出になりました。

―成人としての実感は

玉城 今までとは違いお酒の席での付き合いができた事で大人になったと感じています。考え方も少し大人になった気がします。

比屋根 二十歳になった途端に、まるで誕生日プレゼントのように年金の納付書が届いた時に本当に成人になったのだなと実感しました。

―成人としての決意は

玉城 相手はまだ決まっていないけど、早く結婚して家庭を持ちたいです。子どもを育てたり、未成年の後輩のことも考えたりと責任を感じながら大人として生活をしていきたいと思います。

比屋根 大人らしく自分の行動を考えながら生活していきたいです。

―将来の夢は

玉城 現在、デイケアで働きながら介護士の資格を取得するために頑張っています。また園田青年会に所属し青年会活動を通して先輩や後輩や地域の方々との絆を深めています。今後も自分達のような若者の力で、地元から盛り上げていき、そして沖縄市も盛り上げていけるようになっていきたいです。自分自身の事ではレゲエミュージシャンになりたいし、いつかは多角的な会社の経営もやってみたいです。夢はいっぱいあります。

比屋根 私は今、沖縄中央学園で保育士の資格取得に向けて勉強中です。明るくてみんなに信頼される保育士になるのが夢です。また、幸せな主婦にもなりたいです。

―二人とも若さあふれるキラキラした目で話してくれました。新しいスタートです。成人として頑張ってください。

▼戦後文化シアター 今月のヒストリート

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「コザ十字路」1950年代
▲「コザ十字路」1950年代

 今月紹介する1950年代のコザ十字路の写真には、中央に設置された台の上でおまわりさんが、手信号で交通整理をし自動車の流れをさばいている様子がうかがえる。

 戦前、この一帯は田園地帯であったが、戦後、米軍によって道路が敷かれ、軍道13号線(現、国道329号)と24号線(現、国道330号)が交差し交通の要所となった。また、旧美里村とコザ市の境界をなす十字路一帯には50年頃から、十字路市場、本町通り(現、銀天街)、映画館、洋裁店、料亭、理容館などが林立し、市内はもちろんのこと、現在のうるま市あたりからも買い物客が集まる庶民の街として賑わいをみせていた。一方、米兵を相手とする店舗が照屋、吉原、城前に建ち並ぶようになったのもその頃であった。米兵たちは「フォー・コーナー」「オールド・コザ」と呼び、地元では照屋十字路、宮里十字路とも呼んでいた。

 やがて、コザ十字路の交通量が増え、信号機設置の要望が強くなり、軍道を維持管理している米軍との調整を経て市内初の信号機の着工・使用開始(58年2月・4月)となるが、「緊急の場合、演習のときなど大量の軍車両が通るときには信号灯の管理をまかせてくれ」(琉球新報58年2月18日)という条件付きで、信号機一つさえも米軍の許可なしには設置することができない時代であった。

 第一次毒ガス移送がようやく実現したのは、発覚から1年半後の1971年1月13日。その半年後、7月15日から9月9日にかけて第二次移送が行われました。

 現在、コザ十字路一帯は道路拡張に伴い整備が進められている。今後のまちづくりに期待したい。