Iターン移住者に聞きました

1. 移住前はどういう暮らしでしたか。
2. 移住しようと思ったきっかけは。
3. あなたの履歴を教えてください。
4. あなたにとって大切なものは。
5. 二人のなれそめをさしさわりのない程度で。
6. あなたにとってIターンとは、Iターンで得たものは。
7. 現在の暮らし
8. 沖縄市への提言

住むほどに深く感じる
  自然と人のありがたさ

吉田春樹さん
東京都からプロバンドとして、沖縄市へ移住。「紫」や「アイランド」など当時のトップロックバンドの メンバーとして活躍。その後デザインなどを学ぶ。まちづくり活動にも参加している。

自分はNターンと勝手に定義した。

吉田春樹さん

 東京都出身、1948年生まれ、自由学園最高学部卒業。練馬区で父方祖父母、両親、弟と大学卒業まで暮らす。父親はキングレコードの音楽講師をしていたが、自宅でのレッスンを始め、子供のピアノ教室 や歌手志望者のボイストレーニングの音が一日中響いている家だった。1971年、卒業と同時に学生バンドからそのまま、プロバンドへ移行する。R&Bや初期のロックをレパートリーにしていたが、二人目のマネージャーが米空軍退役者であったため、国内の米軍基地が主な仕事場となる。三沢、横田、横須賀、岩国、佐世保などにワゴン車に楽器とメンバーを乗せて移動する日々が続いた。オフィスはコザと同じく「基地の町」と言われていた福生にあり、後に(1976年)芥川龍之介賞を受賞した村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』の舞台となった場所だ。

 きっかけは沖縄が日本復帰した翌年、マネージャーから「沖縄へ行ってみるか?」と声をかけられた事だ。沖縄の情報もほとんど持ってはいなかった。ただ、中学・高校時代に過ごしたブラスバンド部に沖縄出身の後輩がいた事、寡黙な彼はあまり沖縄の事は話さなかったが、今にして思えば彼らは「パスポートを持って在学していた」んだ、と「復帰したから(手続きなしに)簡単にいけるんだ」というマネージャーの言葉に、唐突に連想した事は覚えて いる。アドレナリンの分泌は最高潮だった。その後、2〜3回の東京〜沖縄の往復の後、バンドは現地解散し沖縄定住となった。言わば「Nターン」である。

 1973年 沖縄初上陸。75年「メデューサ」結成、キーボード担当。78年「ムラサキ(第2期)」加入。83年「アイランド」結成。Live Cafe & Bar 「アイランド」運営。84年 2ndピースフルラブ・ロックフェスティバルに参加。88年 オリジナル曲「Stay with me」、ユーミンのサポートで東芝EMIよりリリース。
1993年 演奏活動を休止、デザイン+DTP本格稼働。「りんけんバンド」(SOYN)「パーシャクラブ」(東芝)「SLUM-JAM」(県内)等のCDジャケット・ポスター制作。
1996年 デザイン&メディア制作会社、株式会社エイムメディアプランニングを設立。取締役専務職。沖縄市うたまち構想委員委嘱。
2002年 「The Quilting Bee」出版。(260頁、フルカラー、ハードカバー、A4)。
2005年 厚生労働省に採択された地域提案型雇用創出推進事業(パッケージ事業)の事業推進員として沖縄市嘱託。
2008年 まちづくりNPO「コザまち社中」設立メンバー。

 『道理』道理にかなっていれば、正しい結論に導いてもらえるから。

 二人のなれそめをさしさわりのない程度で1976年、
  結婚。素敵な息子たちに恵まれて、感謝。

「Iターン」っておかしな言葉だなぁと、常づね思っていた。ターン(turn)は、「回転すること。また、向きを変えること」だから、「I」はターンしてないしね。「Uターン」て言う言葉が「地方で生まれ育った人が一度都心で勤務した後に、再び自分の生まれ育った故郷に戻って働くこと」を意味するのは納得だし、「Jターン」もアリだと思うけど、いわゆる「Iターン」組は確信的移住者なのだから、向きなんか変えない。だから、自分は行ったり来たりしているうちに、「なんくるないさぁ」と定住した「Nターン」と勝手に定義した。得たものは、住むほどに深く感じる自然と人のありがたさ、偉大な自然と素晴らしい人たちの中で生かされてここまで来た。その中で気がついた事は、優しさとバランス感覚、そして、センスとリズム感を持って生きる事の大切さ。ゆいまーるの精神だ。

 沖縄市在住。息子二人は独立。現在、妻とペキニーズの「ララ」と400種近くの植物たちと、外人住宅で共生中。両親は、1996年に東京より沖縄に移住、父親は明治生まれの堅物で心臓病持ちだったが、沖縄のパワーに触れ、髪を伸ばし散歩と新聞投稿を趣味とし、沖縄は良い所だと友人たちに手紙で自慢しまくり、一年後の風呂上がりに「ああ、気持ちいい」を最後の言葉に逝去。母親は近郊の老人施設で、手のかからない優等生と言われながら、89歳で元気だ。仕事については、あまり良い状況とは言えない。デザインの仕事などは世の中が不景気になれば、とりあえずは真っ先に削られる予算だ。でも大変なのは皆同じ。そこで、共生中の植物たちをを眺め、その株を充実させるにはどう環境を変化させれば良いのかを考えつつ、仕事に関しても、また新しい事を考え出さなければいけない。インシュリンの分泌は情けないけど、アドレナリンはまだ分泌するのか?と思う、 今日この頃である。

 沖縄市(特にコザと呼ばれる地域)は、沖縄の中でも特に興味深く潜在的なパワーを秘めている場所だと思う。何が「興味深く」何が「パワー」なのかと問われれば、まずは、まちの持つ「空気感」だ。市外の人の評価は「コザは面白い」「コザは変わってる」「コザは怖い」「コザはよく解らない」と千差万別だ。しかし「コザって何の変哲も無い、日本中どこに行ってもあるような普通の町だ」とは誰も言わない。この事実は興味深い、リフレッシュのために非日常性を体感したい人々の求める空気がそこに存在すると言える。そしてパワーは「人」だ、個性的な人物やサービス精神旺盛な人が多い。しかしそれらの自己主張が単発的な発散であれば、大きなパワーにはならない。内側向きには十分に楽しいのだが、外に向かった力には繋がっていかない。空気も人も、町中に有る空き店舗も、全てが新しいまちを創りあげるための素材だと考えれば、それをうまく活用していくために必要となるものは、全体的な計画や戦略だ。この事実は今まちづくりを少しでも考えている人たちにとっては周知の事であり、少なくとも何かに頼るのではなくて、自分たちの意志で先に進まなければならない事も理解している。

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