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◆ 広報おきなわ(bR64)10月号
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今月の人 |
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目標に向かって我が道を歩む |
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<150>島袋 武智さん(右)(22) 兼城 力也さん(中)(19) 知名 由貴さん(左)(22) | |
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沖縄市の海外姉妹都市にレイクウッド市がある。そして、海外姉妹都市大学の留学生を支援し、学問・専門技術の習得、異文化体験や市民との交流を通し、十一世紀の社会を担う国際性豊かな人材の育成を図ることを目的に助成金を交付する事業がある。現在、その助成を受けて姉妹都市大学で二人の学生が勉強している。又、今年一人の入学が決まった。三人に登場してもらい海外を選んだ動機などを聞いてみた。 |
−海外の大学を選んだ動機は
島袋 |
同世代や社会での競争に勝つためには、何か違うことをしないといけない。そこで、優れた教育システムを持つといわれているアメリカに目を向けた。 |
兼城 |
ビジネスを勉強したいという熱望が沸き、海外を選んだ。又、いろんな人に出合いチャンスをつかんでいきたい。 |
知名 |
フラワーデザインの技術を磨き、私だけのオリジナルの教育方法を見つけ出すため、外国での勉強も必要と思いました。 | −専攻や大学での活動状況は
島袋 |
専攻は経営学部四年制大学編入用カリキュラムです。状況は勉強ばっかりです。でないと卒業できないので。 |
兼城 |
ビジネスを勉強しています。環境適用能力とか会計、経営学です。状況はレポートばかり書いています。気晴らしに野球やサッカーをやっているが、アメリカの大学は宿題が多い。 |
知名 |
専攻はフローラルマネージャーです。フラワーデザインの技術や経営の知識を学びます。 | −悩みや楽しいことは
島袋 |
勉強ばっかりなのと、車がないと何処へ行くにも不便、息抜きが下手なのでストレスがたまりますね。 |
兼城 |
悩みはありません、楽しいことは、アメリカで自分の好きな事を学んでいるという実感、街へ出て日本との違いを発見するのも楽しみの一つです。 |
知名 |
早くアメリカへ行きたいですね。 | −今後の抱負、意気込みは
島袋 |
沖縄市にとって必要な人材になることです。市の発展に貢献できればと思っています。 |
兼城 |
今は勉強、あと一年は実践的な事をしたい。いろんな事にチャレンジしていき、経済的に余裕があればワシントンの四年総合大学に進学したい。 |
知名 |
市にとって役に立つ人材になるよう頑張りたい。国際交流の活動もやりたいです。 | −好きな言葉は
島袋 |
有言実行、日々反省ですが、もう一つは温故知新、先人達の知恵に感謝です。 |
兼城 |
沖縄魂です。ウチナーンチュであることに誇りをもっていたいです。 |
知名 |
初心忘れべからず、何事もできるだけフレッシュな気持ちで、発見を見失わなないよう。 | −最後にモットーは
島袋 |
広い視野は大切です。 |
兼城 |
不屈の男、芯のある男。 |
知名 |
何でも楽しくプラス志向。 | −ありがとうございました。 |
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戦後文化シアター ワーナーさんの写真館 |
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コザの労働者たち | いち早く戦後生活が始まったキャンプコザでは、五月に入ると“十五〜五五歳まで全員作業に出ること、そして怠けた者に対しては配給停止”と、半ば強制的に作業へとかり出されるが、人々はその対価として必要最低限の生活が保障されていくのである。
約一年の無通貨時代をへて、一九四六年四月通貨制度が復活すると、同月の後半から失業者対策、職業調査などの記録が「山戸日誌」に頻出するようになる。五月に実施される賃金制の対策の一環であろう。様々な職の中で軍作業を希望し従事する人が多かったようであるが、その中には米軍によって土地を奪われた者も少なくなかった。
五〇年七月の新聞記事に“離農者の最多は美里村(三〇二人)で、転職先は軍作業が圧倒的に多く、次に土建業”とある。五〇年代、基地建設ブームの到来とともに、相当の人々が職を求めてコザに集まってくる。「基地」によってコザの町は形成されていったのである。
写真について情報をお持ちの方はご一報下さい!
連絡先:総務課・市史編集担当 電話:939−1212(内線2273) | | |
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