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◆ 広報おきなわ(No351) 2003年 9月号
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人との出会いを大切にしながら、走りつづける |
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<137>伊良皆 善子さん(58) | |
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えっすでに登場(今月の人のコーナー)していると思いきやまだだったんだ。取材先のあらゆる場所で顔を会わす。取材仲間というか同業者のようなものでもある。市広報のラジオ番組も担当しているので、週一ぐらいの回数で打ち合わせをする。ーだから、今月の人には何回も登場しているような錯覚をおこしていたのである。今月はあらゆるイベントにたずさわっている人。ラジオから流れてくる声が馴染みの伊良皆さんに登場してもらい近況を聞いた。 |
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諸見里にあるプロジェクトゼンコの事務所を訪ねた。録音中であった。しばらく待って、それから取材。いらみなぜんこといえば、ラジオから流れてくる声でほとんどの人がご存じだとは思うが、まずはプロフィールから紹介する。一九六八年にラジオ沖縄アナウンサーとして入社。七年後にフリーに、それからラジオのレギュラー番組数本に式典や結婚披露宴、あらゆるイベント等の司会で活躍中である。アナウンサー歴は三十四年目。その外に十数年前から童謡作者のふるさとを全国へ訪ね自ら取材、童謡の背景にある愛と平和のメッセージを多くの人に語り継ぐ童謡コンサートや講演活動も行っている。まさにバイタリティーのかたまりみたいな人である。
さらに国際交流推進委員や平和行政、女性問題懇話会委員など八つの委員と数団体に所属している。常に走っている人でもある。生い立ちを聞いてみた。
疎開先の宜野座村の山羊小屋で出生。幼少の頃は諸見里で過ごす。「当時の諸見小のまわりはたんぼや松林で、又、中の町小あたりは原っぱで、その自然を舞台に東映時代劇を脚色、芝居ごっこをして遊んでいたの、私のアナウンサーの原点はそこにあるかも知れない」と振り返る。それから学生時代は演劇に熱中、そして現在の世界へ。
八年前に有限会社プロジェクトZenkoを立ち上げた。会社経営者としての考えを聞いてみた。「自分の道は自分で切り開くというのが私の信条、それには、あせらずマイペースでいくこと。初めて企画、営業を手がけた時は緊張の連続だったけど誠意でのぞめば通じると感じとったのもその頃だった」。それから会社設立。「正直いって経営については無知だった。私でさえかなり悩んだんだから」と笑う。しかし、その奥には握りこぶしのような、ぐっとつかんだ自信がみえる。数年前、松下幸之助氏の「経営は総合芸術である」との言葉に出合い、心にわだかまっていたものが吹っ切れたという。心にいつも思う言葉は「人間は一生自己変革できる」。最後に今後の走りっぷりを聞いた。「プロジェクトZenkoは沖縄市で生まれ育ち、商いをさせていただいている気持ちを大切に、地元に貢献できる企業でありたい。そして自分達の手で自分達の街を元気にしたい。走りながら考えるタイプなので、しょっちゅう転ぶ、助けていただいた人がたくさんいる。人との出会いを常に大切にしたい」と結んだ。 |
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世栄のしるし 九月七日は、「市民平和の日」。日本国憲法と核兵器廃絶平和都市宣言(八五年)の理念を基に、二度と戦争を“繰り返さない”“許さない”ことの決意を新たにする。
アスファルト 踏みしこの道 延々と 母の名呼ぶ うめき声 きこえるが如く 胸いたむ (喜友名恵美子 初代沖縄市親子平和大使親)
八十八歳のトーカチ祝が四日で、十五日が敬老の日。今年の沖縄市の八十歳以上の方は、百七十三人増え三千五百七十九人。百歳以上は中の町の大山静子さん(百九歳)を最高に五十六人(男六人、女五十人)。昨年より十二人増えている。(四月一日現在)「肝若く笑い福い長寿にがやびら」をスローガンに、平成十五年度沖縄市敬老会が十五日市民会館大ホールで開催される。午後から市長が新百歳の方々を訪ねて祝状や記念品を贈り長寿を祝福する。
百歳年寄のうち笑ていまゐす これど世栄のしるしさらめ (読人知らず)
例年強い台風の接近は九月が最も多い。特に一昨年九月の台風十六号は、胡屋で二日間で四百四十二ミリの雨量を記録し、四百七十四棟が床上浸水、住民が一時避難するなど沖縄市始まって以来の大災害をもたらしたことはまだ記憶に新しい。
市内各地でカー御願やウスデーク、十五夜(ジューグヤ)などが催される九月中旬には、沖縄の真夏日も寝苦しかった熱帯夜も終わる。 |
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