今月の人

ジャベリックスローで全国二位

236. 大城 まゆさん(15)

山田 七海さん

 美東中学校の大城まゆさん(三年生)がジュニアオリンピックにおいて陸上競技のやり投げの小中学生版種目にあたるジャベリックスロー競技で全国二位の快挙を成し遂げた。まゆさんは沖縄県中学校陸上競技大会でも五十二メートルを投げ県の中学校新記録も出している。普段はバレーボール部のキャプテンも務める運動神経抜群なまゆさんに、今回の記録や今後の目標について話を聞いた。

 まゆさんの家はスポーツ一家だ。父は宮里中学校のバレーボール部外部コーチ、母は体育の先生、兄はサッカー、姉はバレーボールと家族全員がずっとスポーツに携わってきた。そんな家庭で育ったので、小さな時からスポーツをするのが当たり前の環境だった。まゆさんも小学生の時からバレーボール部に所属し練習に励んでいたが、二年生の時の校内体力診断テストのハンドボール投げで三学年中一位の記録を出し、陸上のジャベリックスローの選手にスカウトされる。

 ジャベリックスローとは、陸上競技におけるやり投げの小中学生版種目であり、やりの代わりにターボジャブと呼ばれるプラスチック製で先端が柔らかく安全な用具を使用して行われる。ジュニアオリンピックや全国障害者スポーツ大会などで正式種目に指定されている。そのジャベリックスローの選手にスカウトされ、中頭地区陸上競技大会へ向け夏休みを返上し基礎から練習を始めた成果もあり、見事優勝し県大会へ出場した。だが、石垣島で行われた県大会では、あまりの緊張でうまく投げることができず、散々な結果に終わってしまう。今年はその時のリベンジを果たそうと、所属するバレーボール部の県大会が終わる七月後半からジャベリックスローの猛練習を始め、九月の中頭地区陸上競技大会に臨むと四十七メートルの大会新記録を出した。その後の第五十三回沖縄県中学校陸上競技大会でも五十二メートルの記録を出し、県の中学校新記録を塗り替える。その勢いのまま神奈川県で行われた第四十二回ジュニアオリンピックに県代表として出場し、見事全国で二位の快挙を成し遂げた。

 現在中学校三年生で高校受験を控えた身であるため、高校に入学後、好成績を残した陸上の道に進むか、今までやってきたバレーボールを続けるか大いに悩んだが、やはり自分に向いているのは団体競技であるとの結論に達し、バレーボールを選んだ。今回の全国二位という快挙で味わった「勝利の喜び」を今度はチーム全員で味わうために高校入学後も今まで以上に頑張るつもりだ。

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演説する中村元美里村長「命を守る校区民総決起大会(美里村北美小)」にて。1971.01.07、撮影:吉岡攻
▲演説する中村元美里村長「命を守る校区民総決起大会(美里村北美小)」にて。1971.01.07、撮影:吉岡攻

 明けましておめでとうございます。今月も、現在開催中の企画展「毒ガスが走った街 1971」から、話題をお届けします。

 1969年7月、知花弾薬庫内に貯蔵された毒ガスの存在が発覚して以来、前号で紹介したような早期撤去を要求する運動は、まさに県民ぐるみで盛んに行われてきましたが、その道のりは大変険しいものでした。特に移送経路にかかる地域の住民は、安全対策が不十分だとして「移送阻止」行動も辞さない構えでした。

 毒ガスの早期撤去を要求しながら移送阻止とは、一見矛盾しているようですが、これは毒ガスの恐ろしさをよく知り、生命の危険を感じた地域住民が「自らの命を守る」という根源的な要求からくる行動だったのです。

 第一次毒ガス移送がようやく実現したのは、発覚から1年半後の1971年1月13日。その半年後、7月15日から9月9日にかけて第二次移送が行われました。

 第二次移送までの半年間にも、移送経路の問題はさらに困難を極め、集落を迂回するために新たな道路まで建設されました。しかしその費用は、米軍によって秘密裏に持ち込まれた毒ガスを移送するのにも関わらず、日本政府が負担する事になりました。

 「毒ガス移送」は、単なる一つの事象ではなく、それにまつわる諸資料は、当時の米国・日本・沖縄の関係を語ってくれます。前年に起こった「コザ暴動」や翌年に控えていた「日本復帰」などと連続して考える事も重要だと思います。

 今年は、沖縄の日本復帰から、ちょうど40年目の節目に当たります。皆様も復帰直前の沖縄を、もう一度考えてみませんか。

「毒ガスが走った街 1971」は、今月29日まで開催