今月の人

熱くなり過ぎず、醒めず、初心を忘れず、青年らしく楽しく

217.喜友名 秀樹さん(29)

 もうすぐ始まるエイサーシーズン。太鼓の音を聞くだけで心躍る人は大勢いるだろう。若者が全身全霊を傾けて取り組むからこそ、エイサーは見る人に大きな感動を与える。今月はありあまるパワーを持つ八百人の青年たちのまとめ役である沖縄市青年団協議会の新会長に就任した喜友名秀樹さんを紹介する。自らを「世代と世代のパイプ役」と分析する喜友名さんの青年会への思いや、今後の展望について聞いてみた。

 喜友名さんが青年会に関わったのは中学を卒業してすぐ。友人に誘われ山里青年会に入会したのがきっかけだ。好きなエイサーをやっている
だけなのに周りから「頑張っているね」と評価してもらえることが心地よくて続けてきたという。活動を続ける中で先輩と後輩のつながりや地域と青年会とのつながりの大切さを理解するようになったという。二十代前半で山里青年会長になった喜友名さんは早い時期から市青協の役員になった。同時期に役員として共に活動した先輩方からも、下の世代からも信頼があつく、四月三十日に開かれた総会で市青協会長に推挙された。「自分は会の中の『つなぎ』の世代。今、市青協をまとめている三十代の先輩方、それを支える二十代の後輩たちとのちょうど真中の世代。上の世代から下の世代へと青年会の伝統や精神を伝承することと、世代交代を円滑に進めるための『パイプ役』として会長になったと思っています」と市青協における自らの役割を分析する。
 会長に就任して最初の年の目標を尋ねると「楽しく魅力のある団体になること」と答えてくれた。「会員たちにはエイサーのためだけに市青協に集うのではなく、情報交換の場、親睦を深める場として市青協を利用してほしいと思っています。その中でいい意味で競い合い、互いを高めていってほしいと思います。」と要望した。また青年会と自治会の関わりについて「自治会は伝統や文化、習慣、秩序を教えてくれる場。『問題のある子』がいたら、社会の中で彼らを受け入れ、教え育てる場が必要。それが青年会であり、自治会だと思います。青年たちには自治会とのつながりを今以上に大切にしてほしいと思っています。若者の持つエネルギーを良い方向に導くのも青年会や自治会の大きな役割と思っています」と話す。
 日中は障がい者就労支援事務所で勤務し、夜は市青協会長として青年たちをまとめながらこれから始まるエイサーシーズンに立ち向かう。ハードな日々だが「熱くなり過ぎず、醒めず、初心を忘れず、青年らしく楽しく頑張りたい」と、明るい眼差しを向け会長としての抱負を語った。

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▼戦後文化シアター 今月のヒストリート

▲『ベトナム爆撃反対』1969年2月4日
嘉手納基地前

市史編集担当/TEL:939-1212(内線2273)
ヒストリート、ヒストリート2/TEL:929-2922

 今月は、左の写真「ベトナム爆撃反対」を紹介 します。これは、石川文洋氏が1969(昭和 44)年2月4日、嘉手納基地前で撮影したB52撤去闘争デモの様子です。
 米戦略爆撃機「B52」は、ベトナム戦争が本格化した1965(昭和40)年頃から、台風避難を理由に根拠地のグアム島を離れ、たびたび嘉手納 基地にその姿を見せ始めており、「黒い殺し屋」と 形容される性格と撒き散らされる騒音に、周辺住 民から反発が起きていました。また1968年2月 5日からの常駐化や、同年11月19日に知花弾薬庫(沖縄市)付近で起きた墜落事故で、撤去闘争の気運が一気に高まりました。当時の新聞では、 墜落現場付近に6箇所の核兵器貯蔵庫がある事 で「誘爆すれば沖縄全滅」と報じており、B 52による不安と恐怖は全琉に広がったのです。
 そして常駐から1年後の1969年「2・4ゼネ スト」が計画されたのですが、主に日米両政府の沖 縄返還交渉を妨げる恐れがあるという理由で直 前回避されました。しかしながら当日、大雨の中、58団体4万人規模のデモが行われ、高校は全校休校、北美小学校など中部の小中学校では「B52特設授業」が設けられるなど、市民レベルでB52の撤去を強く要求しました。結局、同機は翌年9月まで常駐を続け、復帰後も約半年間は非難を浴びながら飛来を続けました。現在、黒い殺し屋B52は、再びグアム島に根拠地を移しています。

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