今月の人

音楽は計り知れない美しい神秘的な宇宙

219. 奥平 潤(75)

 とても七十五歳とは思えない、よく通る声にしゃきっと伸びた背筋。現在でも日に五〜六時間はピアノに向かい、精力的に作詞・作曲、編曲に取り組んでいる音楽家の奥平潤さんを今月は紹介する。長年指導してきた沖縄市少年少女合唱団で取り組んできたこと、新たな分野へのチャレンジ、奥平さんが愛してやまない音楽についての思いなどを聞いてみた。

 沖縄市歌の作曲者としても知られる奥平さんは五十年余にわたり音楽家として第一線で活躍してきた。これまでに作曲した曲は二千曲余。ピアノ曲、童謡、歌謡曲、合唱曲など多岐にわたる分野で独自の世界を作り続けている。
 奥平さんは合唱団の指導者としても知られる。市においては、昭和四十八年から三十二年間にわたり「沖縄市少年少女合唱団」を指導してきた。それまで合唱団で歌われてきたのは同じ沖縄の曲でもポピュラーな童謡が主流だったが、奥平さんは離島などに伝わる民謡などをアレンジした難度の高い曲を教え、こどもたちに能力を発揮させた。チャレンジは更に続き、合唱団としては珍しいミュージカル作品十二作を作り上げた。奥平さんは作詞、作曲、演出をこなし、こどもたちや保護者も衣装や舞台の大道具小道具づくりを手伝うなど正真正銘手作りの舞台だった。合唱団のミュージカルは評判を呼び、昭和六十一年には全国の合唱団で初めて東京ディズニーランドで「シンデレラ」を上演し高い評価を受けた。奥平さんは当時を振り返り「僕は人が育っていくのを見ることが好き。こどもたちは『原石』で僕は素材の個性を活かして『宝石』になるよう磨いていく職人という意識で指導した。こどもたちは全力で音楽に取り組み、音楽の楽しさを知り成長し、そのうちの何人かは音楽を仕事に選んだ。指導者として大きな喜びを感じている」と語った。
 現在奥平さんは、自身の経営する音楽学院で音楽を教える傍ら、民踊界の大家・仲本興真先生とともに民踊の作品作りに力を入れている。「沖縄の音楽は世界に誇れるもの。沖縄的な音階を使い、沖縄的な自然や人情を詩に織り込み、人々の心に届く作品を作りたい」と意欲を燃やしている。
 奥平さんの座右の銘は「挑戦」と「有言実行」。「音楽は計り知れない美しい神秘的な宇宙。探訪し続けていきたい。これから死ぬまで何が出来るかを楽しみながら、自分にしかできないことを追及したい」と、生涯をかけて取り組む音楽への思いを語った。

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▼戦後文化シアター 今月のヒストリート

▲枯葉剤作戦

市史編集担当/TEL:929-1212(内線2273)
ヒストリート、ヒストリート2/TEL:929-2922

 今月は、石川文洋氏の『戦争と人間』の中から、ベトナム戦争時に使用した枯葉剤による被害をとらえた写真を紹介します。
 ベトナム戦争は一九六〇年から南北統一を巡って、米ソ東西両陣営の対立を背景に争われ、一九七五年まで続きました。
 枯葉剤の散布が始まったのは一九六一年八月からでした。アメリカ軍は、ゲリラ戦で闘う“ベトコン”兵士が潜んでいるジャングルの木々を枯らすことと、彼等の農産物を汚染し、食料として使えなくすることを目的として、一九七一年までの間に二万回にわたり、八万キロリットルを、二四三万ヘクタール(南ベトナム国土の二〇%)に撒布しました。
 この影響でマングローブの林が破壊され、枯葉剤に含まれているダイオキシンにより、人体にも癌や先天性障害などを引き起こしました。「史上最強の危険物」と言われるダイオキシンは、いちど体内に入ると蓄積され排出されにくく、土壌には百年経ってもなお残ると言われ、第二世代、第三世代に亘って影響を与えて続けています。
 石川氏は「戦争の実態を知らしめる写真には、戦争を防ぐ大きな力がある」という思いでシャッターを押し続けてきたそうです。ベトナム戦争時、基地の町コザと呼ばれた沖縄市では、石川氏の写真をヒストリート2で展示しています。是非ご覧下さい。

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