今月の人

手が動く間はずっと陶芸を続けていきたい

210.田中順子さん(51)

 今では多くの陶芸家が作るようになったお馴染みの擬人化されたシーサー。笑った表情、悲しい表情、時には踊り、時には三線を弾くなどその表現は自由自在。すでに作陶の一つの分野になっている。しかし、今から十九年前はそうではなかった。シーサーは伝統の工芸品であり、守り神であり、それを擬人化するのはタブーであった。
 今回はそのタブーを打ち破り、自由な感性で擬人化シーサー作製のパイオニアとなった陶芸家の田中順子さんを紹介する。

 田中さんが陶芸に出会ったのは今から十九年前。当時東京に住み、「書海社」という書道団体に在籍していた田中さんは社展に出品する琉歌の屏風仕立てを作った。その作品を祖母へのトゥシビー祝いにしようと思い、じっと見ているうちに作品の前にシーサーを飾ろうと思いついた。どうせならそのシーサーも自分で作りたいと陶芸教室に通ったのがこの道に進むきっかけだったという。教室で陶芸の基礎を学ぶと、そこからは独学で試行錯誤を繰り返しシーサー作りに打ち込んでいく。小さな頃から活発で屋根に登って遊んでいた田中さんにとって、シーサーは友達のような存在。「シーサーさん、屋根からおりてきて一緒に遊ぼう!という気持ちで、エイサーをさせたり三線を弾かせたりしました。」こうして田中作品の代名詞ともいえる「擬人化シーサー」が誕生した
 作品は徐々に話題を呼び、様々な陶芸展で入選を重ねていく。一九九四年には郷里の沖縄市で初の個展を開いた。しかし当時は必ずしも肯定的な評価ばかりではなかった。守り神のシーサーを擬人化するなど不謹慎との声もあがったという。「東京にいたことを幸いに批判は聞こえないふりをして必死で作品を作っていました」と当時を振り返る。個展の回数を重ねるうち作品は県内でも高い評価を得るようになり、その後多くの作家が擬人化シーサーを作り始め、擬人化シーサーは広く世間に認められるようになった。
 二年前沖縄に帰ってきた田中さんはご主人とともにギャラリー喫茶「嬉楽」を諸見里に開いた。店内には表情豊かなシーサーや小地蔵、仏像などの作品がずらりと並ぶ。店の裏には窯と作業場を作り、製作に打ち込む日々を送っている。「沖縄市はエイサーと音楽の町。自分の作品にも沖縄の文化風習を取り入れています。土という素材でどこまで表現が可能か、自分へ挑戦し続けています」と話した。
 好きな言葉は「佳(よし)とするも否(いな)とするも己の心ひとつ」。「陶芸は様々な要素が入った集大成の芸術。出会えたことに感謝している。手が動く間はずっと続けたい」と陶芸へのひたむきな思いを語った。

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▼戦後文化シアター 今月のヒストリート

 今月は、ヒストリートIIから「陶製防衛食器(とうせいぼうえいしょっき)」の紹介です。左の写真、一見フタ付きの湯呑みに似たこちらの焼き物は「防衛食器」と呼ばれるモノです。
 防衛食器は、一九四三(昭和一八)年、名古屋の陶器会社が製品化した陶器製の真空容器で、いわば缶詰容器の代用品でした。中には、煮豆などが入っていたとの事です。戦時下の大手陶磁器(とうじき)会社では、国内における金属資源の自給自足体制に資するため、さまざまな「代用品」を開発・製作していました。その技術は非常に高く、防衛食器に関しては製造から五〇年経っても内容物に異変がなかったという報告もあるほどです。
 こうした動きは一九四一年九月、「金属類回収令(きんぞくるいかいしゅうれい)」の施行によって本格化され、巷(ちまた)では深刻な金属資源・製品の不足に見舞われていました。
 もちろん、本県や本市も全く他人事ではありません。本土同様、各家庭において日用品までも対象とした「金属の回収・供出」が行われていました。一九四二年十一月の新聞記事によれば、越来村(現・沖縄市)に二四〇円、美里村(現・沖縄市)に六〇〇円もの金額が、金属回収のための諸費補助金として交付されています。
 かつてこのような厳しい状況を、さまざまな「代用品」で、生き抜いてきた時代がありました。当時の道具が、それを雄弁に語っています。


陶製防衛食器

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