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◆ 広報おきなわ(bR67)1月号

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今月の人
友人が多いことは幸せ
充実した日々を過ごしたい
<153>金城 廣さん(70)
定年前になると定年後をどう過ごせばよいか、誰もが考えることだろう。何をどうしてよいのやら、一歩が踏み出せない方もいる。しかし、個々の人生、誰もが楽しく過ごしたいものである。今月は、かがやきながら、後半の人生を有意義に過ごしている方を紹介しよう。「楽しい毎日を送っている」と語る金城さんへ本職の書道や趣味にまつわる話などを聞いてみた。
十一月に市文化協会主催で「瑞石 金城廣展」が開かれた。
作品は書道五十五点、写真二十五点、木彫工芸二十七点が展示された。
「三十七年の教員の職を定年退職して満十年が経ち古稀を迎えた。その節目の年に永年続けてきた書作品と退職してから趣味として始めた写真と木彫工芸作品を展示して、周りの方々からの御指導を賜ろうと思ったのがきっかけなんです」と作品展の意図を話したが、謙虚さと真面目な人柄、芸術に対する金城さんの情熱は初対面でもひしひしと感じる。
書道に関しては毎日展をはじめ、沖展や茨城県教育長賞、県文化協会賞功労賞など数多くの賞を受賞するなど、書道家としては県内外に幅広く活躍している。書の道へ入るきっかけを聞いてみた「大学で書道の講座を受けたのが最初で、それから、帝京大学教授の續木湖山先生や多くの先生方の指導を受け、現在も続けているんです」と話す。
現在は書窓クラブ(会員十六人)の講師や戦前生まれが集うユニークな会「時々展」会の会長なども務めている。
定年後に始めたのが木彫工芸と写真、木彫は伯母のすばらしい作品を見て始めた「木を彫っていると吾を忘れて何時間でも打ち込める楽しい魅力があります」と云い、写真については「表情を撮るのが好き、写真は心を写す写心でありたいです」と自分流にこだわる。
幼少の頃から手先は器用だったんですか、訊ねてみた。
「私は宜野座で生まれ、高三まで宜野座にいました。幼少の頃は家の近くに浜があり、海がありました。そして裏手は山です。毎日、真っ黒になり海と山を駆けまわっていました。鳥かごや刀などをつくったり、物をつくるのは好きだったんですね」と話し「小さい頃からこり性だったんでしょう」と続け、「余計ですが我は海の子という歌を聞くと、つい涙が出ますよ」と当時を振り返る。書、木彫、写真に通じるものって何でしょう。「すべて奥が深いですが、余白の構図、不調和の調和を感じますね、ある種バランスで成り立っている気がします」。卓上の年賀状が目に入った。「何枚ぐらい出すんですか」「私は返事として書くんですが、三百三十枚くらいでしょうか。教え子達が送ってくるんです」と目を細め、「友人、知人が多いほど幸せ、私を支えている方々に感謝している私は幸運です」としみじみと語った。
材を通して感じた。ヌチグスイ(心身にとても良い薬のようなもの)になる話であった。
 

 
▼戦後文化シアター ワーナーさんの写真館
嘉間良の収容所 1945年末頃
一九四五年四月二日、嘉間良一帯に住民の収容所を設置した米軍は、収容地区を越来・室川・安慶田・照屋まで拡大しキャンプコザと呼ぶようになる。その中心部・嘉間良には村役場、本部事務所、警察署、郵便局に学校などが設けられていき、以後、収容地域は拡張され九月には古謝市(胡差市)が誕生する。

四五年末、ワーナー(少尉)さんの勤務地である嘉間良には、各地からの難民と指導管理をする米将校たちがいた。

今回の写真は、その状況を知る一枚である。中央の道を挟み、右側が米軍テント群である。整然と立ち並ぶテントには、ワーナー少尉を初め海軍下士官の住居、食堂などが配置されていた。左側は戦禍を免れた家屋などを利用した住民エリアである。左手奥には民間人墓地も見える。

ちなみに、翌年二月にはワーナー少尉は転属となり、米軍テントも無くなったという。
写真について情報をお持ちの方はご一報下さい!
連絡先:総務課・市史編集担当
電 話:939-1212(内線2273)
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