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◆ 広報おきなわ(No345)  3月号

写真
▲ 町田さん、大城さん(写真左から)
食生活改善普及活動
が認められる
<131> 町 田 初 子 さん(65)
大 城 光 子 さん(60)
 このほど第34回沖縄県公衆衛生大会が宜野湾市で行われ、団体の部で沖縄市食生活改善推進協議会(町田初子会長)が個人の部で沖縄市食生活改善推進員の大城光子さんが栄えある表彰の栄誉を受けた。
 今月は町田さんと大城さんのお二人に登場してもらい、市食生活改善推進協議会の果たす役割や推進員としての責務、そして受賞の喜びの声などを聞いてみた。
 沖縄市食生活改善推進協議会が発足したのは平成元年。現在は170人という県内で最も多い会員がおり、食を中心とした健康づくりの活動を行っている。
 現在、会長を務めているのは今年で会長職2年目の町田さん。町田さんに尋ねた。市の食生活改善推進協議会の活動状況は「そうですね、会員全員が『私達の健康は私達の手で』を合言葉に各地域で減塩や高脂血症予防食などのヘルシーメニューの紹介や市の行う、さまざまな健康づくり事業に参加して、食生活や運動のことなどを参加者と気軽に話しながら楽しく地域活動をやっています。又、昨年は全地域で80回の食生活改善講習会を行い、約1,900人の方々が参加しました」。講習会の数の多さもそうだが、その活動ぶりがうかがいしれる。
 受賞の喜びや今後の抱負について町田さんは「賞は行政の手助けもあっていただけたものと思っています。活動が評価されたことはうれしく、これからの目標が見えてきた感じ。会員が一つの輪となって今後も頑張っていきたい。抱負としては、私達一人ひとりが学び、いきいきと輝き、楽しく活動し、そして、ひとりでも多くの市民が食生活の改善に意欲が持てるよう、実践、習慣化ができる活動を目指したいです」と話した。
 大城さんは昭和51年、52年に市婦人連合会副会長、53年に会長を歴任、平成3年から2カ年間、生活改善協議会会長、平成9年から12年まで同食生活改善推進協会長を務めた。現在は理事を経て相談役として多忙な毎日である。
 今回の受賞は常に地域住民の食生活改善に取り組むとともに会員の人材育成に尽力した功績とリーダーとしての行動力を発揮して会員の資質向上に取り組んだ姿勢が高く評価された。
 大城さんは現在、市の事業、健康づくり推進協議会のメンバーであり、食生活改善推進協の立場から地域の声を届けている。又、食生活改善等の自主グループ活動も行っており、これまで蓄積してきた話題を常に提供している。
 受賞については「身に余る光栄で、継続の大切さがわかりました。周りの方々の協力に感謝しています」と話した。好きな言葉は「春夏秋冬」自然の流れに沿って自分らしく自然体に生きることを信条としている。
 まだまだ現役ばりばりの大城さんは今日も忙しく地域を駆ける。

歳時記
利 休 忌
 わび茶の伝統を受け継ぎ、現代茶道の基礎をつくりあげた安土・桃山時代の茶人、千利休。彼の生涯に、その運命を決定づける人物、豊臣秀吉が登場するのは、織田信長の茶頭を務めていた五十代初めのことでした。
 茶頭とは、茶の湯のことをつかさどる役で、信長の時代には政治にもかかわり、次第に権力をもつようになりました。
 当時、茶頭としては三番手だった利休ですが、天正10年(1582)に本能寺の変で信長が倒れ、秀吉が天下統一を達成すると、筆頭茶頭にとりたてられ、側近として重用されます。この後の数年間で利休は茶の湯を大成させ、天下一の宗匠*として、茶頭以上の存在となって絶大な権勢を誇りました。
 しかし、利休と秀吉の間には、やがて少しずつ亀裂が生じ始めます。天正19年(1591)正月22日、秀吉の弟で、利休とも非常に親しい間柄であった秀長が没すると、事態は一挙に進行していきます。
 利休が秀吉の命により切腹したのは、それから1カ月あまり後の2月28日(新暦では3月28日)。利休が大徳寺山門に自らの木像を置いたことが不敬不遜にあたるというのが、公の罪状でした。
 利休は菜の花を好み、自刃のときも菜の花を生けたといわれます。今日でも、利休忌にはしばしば菜の花が供えられます。
     *和歌・俳句・茶道などの師匠。

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