知花花織は登川や池原で織られており、ずっと北では石川の伊波まで同様の織物があったと言われている。だがこれまで実物を大切にしながら、技術を絶やさぬよう継承してきたのが知花の集落の人々だった。
知花では毎年旧暦の八月十五日、厄払いの獅子を先頭に知花花織の衣装を身にまとった女性が、知花のウカミヤーを出発。ナーカウフヤーのシーサーにお神酒をあげ、集落から公民館まで歩き回り、地域の厄払いをしている。
また、昔はウシデーク(ウスデーク)を踊る方は全員が知花花織をはおっていたという。現在でもほとんどの方々が花織を着て踊っている。



伝承文化遺産をみんなで大切に育もう
浦崎 清子さん
知花花織が国の伝統工芸品に指定されたことを一番喜んだ人である。ウスデークやまつり、行事など先頭に立って知花区民を引っ張ってきた。文化面にも強い関心を持ち頼れる人である。
伝統的な染と織りの芸術文化「知花花織」は、島内からも注目を浴びるようになった。二〇〇一年、記念すべき二十一世紀の旧十五夜に行われた奉納舞踊ウスデークで披露された時、歴史を感じさせる渋い色調に神々しささえ感じ胸が熱くなる思いであった。
文化意識の格差はあれ、知花地域に住む我々にとって、「知花花織」はすごい歴史を持つ染織文化であることを知った。昔、どのように庶民の生活に根ざしていたかはさだかではないが、言い伝えによると自分あるいは、母娘が晴れの場や、祭祀などで着て、自分たちの手で織った出来栄えの満足感や技の披露、着飾るよろこびを味わうのに使用されたと思う。男性が競う馬乗競争(ウマハラシー)の衣裳や村祭りの晴れ着としても使用されたという。普段着としては芭蕉布がほとんどで、花織などとてもおよばなかったにちがいない。
激動する大戦で祭り事も規制されたのであろう。花織り着用は勿論、織物技術の継承も困難だった。戦禍をくぐり、各家庭に残っていた花織も戦後の蒐集家たちの手に渡り殆ど残っていないが、現在、有形民族文化財として市の指定を受けている数少ない現物は、一八〇〇年生まれで、終戦直後六五歳であった後兼島のおばあさんが十八歳の頃織られた布だと聞くから一九〇〇年前後辺りまでは、各家庭で織られていたと推測される。
知花花織に初めて袖を通して踊られた古老たちは、例年より表情を引締め、五穀豊穣・安全祈願・収穫御礼の神聖なる奉納舞踊を披露して下さった。
歴史文化が掘り起こされたことにより、まさしく温故知新、祖先が残した貴重な伝承文化遺産を地元でより以上に大切に育み、将来は地域色にこだわり、独自性豊かな沖縄市を代表する伝統工芸品として工芸産業の復興に寄与することを希望する。
「知花花織」の布をもったいなさげにあしらったサマーウェアを着用している人を見るにつけ、親しみを覚え、つい声を掛けたくなるのは単なるひいきめだけではない。「花織」を愛する地元人の気持ちが相手にも伝わっていると思う。
文化を育てるには、根ざす土地が必要であり、知花地域は、緑豊かな自然が多く残る山が有り、比謝川という大きな流れがあり、有形無形の文化が息づく古い歴史を持つ集落である。大げさかもしれないが、地域の歴史に残る二十一世紀産物として天の時、地の利、人の和の結晶を夢見ている今日この頃である。
今後、伝統工芸・伝承文化の掘り起こしなど、知花城を中心に総合的に発掘育成していくことによって、自然とマッチしたまちづくりをすれば産業としても十分希望がもてると確信する。

知花花織の本格的な事業活動は、平成十一年度に策定された「沖縄市工芸による街づくり基本構想」に始まる。その前年に知花花織を中核とした「沖縄市工芸による街づくり委員会」が設置され、その事業を進める過程で先進地調査などが行われた。そして、それらの成果を踏まえながら「美里花織か、知花花織か」の名称議論が行われている。最終的な結論として、知花城址(グスク)や知花焼(古窯)などとの一体化を目指して知花花織に決定された経緯がある。しかし、行政の取り組み以前に沖縄市議会では故佐久田朝盛議員から美里花織に関する質問があり、具体的な振興施策を求める声があった。そのような社会的背景の中で、沖縄市工芸による街づくり基本構想が策定され、平成十二年には知花花織の研究・織り手の育成に着手した。

その後は沖縄市の人材育成事業が本格化し、毎年六人〜十二人の人材が育っている。そして、平成二十年九月には知花花織事業協同組合が設立され、法人としての足場が築かれたため、翌年の平成二十一年三月には沖縄県伝統工芸産業振興条例(昭和四八年 条例第七二号)に基づく伝統工芸製品の指定申出を行っている。この時点で技術技法の発生起源、さらに継続性などが調査されたが、これらの課題を難なく克服し、平成二十二年三月十二日付けで沖縄県伝統工芸製品に認定された。
県民にとっては自信と誇りの源泉となっており、沖縄市にとっては大きな成果の一つになった。
沖縄県は、去る大戦で地上戦を体験した。そのため、数多くの文化遺産を失うことになった。戦前の沖縄には、首里城跡を中心として二十三件もの国宝が存在していた。戦争はひとの命だけでなく県民の財産、あるいは祖先から受け継いできた貴重な文化遺産の多くを奪ってしまった。今に残されている沖縄県の文化遺産は、どれも戦争の惨禍をくぐり抜けてきたものばかりだ。現在では大戦によって有形・無形の数多くの文化遺産は戦争で破壊され、あるいは散逸してしまった。知花花織が現存し伝統工芸品として指定を受けたことは織り手や研究者、関係者の努力のたまものだろう。
経済産業省の産業構造審議会伝統的工芸品分科会第十回指定小委員会が平成二十四年五月二十一日に経済産業省本館で開かれ、知花花織を国の指定する伝統的工芸品に加える事を内定した。七月二十五日には正式に指定され、沖縄県では二十三年ぶり、十四品目となる伝統工芸品に認定された。知花花織の認定で国の伝統的工芸品は二百十二品となる。
知花花織が織られていた知花地域は沖縄戦で大きな被害を受け、戦後はわずかな織り手が細々と制作を続けてきた。その状況を変えたのが、琉球大学で知花花織を研究した幸喜新さん。研究した知花花織の技法をまとめ、多くの支援者や行政の協力のもと知花花織の織り手の育成に努めた。市では知花花織で新たな地域文化産業の創出を図ろうと平成十二年から支援を推進し、平成二十年九月には知花花織事業協同組合が発足。現在では知花花織を使用した、ネクタイや財布、ストラップ等も製作されている。知花花織は平成二十二年三月に県の伝統工芸製品に指定されており、国の伝統的工芸品としての指定を申請していた。

伝統を継承し、地域文化と経済の活性化を目指す
知花花織は去る七月二十五日に正式に国指定と認定されてから、市民の花織への関心が高まっている。
市では一九九九年度に工芸による街づくり「会議設立検討委員会」を発足し、知花花織を核とした「工芸による街づくり事業」の提言を受けた。2000年度から人材育成事業を開始。花織の研修生に九人を採用し、毎年六人から十二人を計画的に育成してきた。
01年三月には復興支援の会を発足、04年八月には知花花織発展支援の会となり、知花花織を市の民俗文化財に指定した。
それから、08年九月に事業協同組合が設立、花織の認知度も高まり、組合の基盤も強化されていった。
10年五月に組合総会での国指定申請への決議を経て、11年十二月の正式提出に至り、国指定となった。
知花花織の伝統的工芸品(経済産業大臣指定)によせて、東門市長は「国指定を受けることができたのはこれまでに地域の伝統文化を継承し、支えてきた地域の方々をはじめ、知花花織の織り手の皆さんの、たゆまぬ研鑽と切磋琢磨の賜物であると確信している。今後とも本市の知花花織が、市民の誇りとして、国内外で末永く愛されることを心より祈念し、組合員並びに関係各位に、あらためてお祝いを言いたい」とあいさつをした。

▲国の指定を契機に組合員も、さらなる結束で仕事に励む(知花花織事業協同組合)
知花花織作業工程
1.黄色系染料
福木(フクギ)皮の採取
2.赤系染料
グール(サルトリイバラ)の採取
3.琉球藍(リュウキュウアイ)
4.本部町伊豆味
藍畑での刈り取り作業
5.絣括り(かすりくくり)
図案(デザイン)にもとづき、糸にしるしをつけ、ビニールひもなどで模様の部分を括る。
6.染色(せんしょく)琉球藍の染織
本部町伊豆味の天然藍を、水あめ、泡盛、アルカリ剤とともに専用の甕に入れ発酵させた後、濃紺に染色する。
7.整経(せいけい)
経糸を織機にかける前におこなう準備工程のひとつ。経糸を一定の長さと本数にわけ巻取る。
8.経巻(たてまき)
整経したすべての経糸を、一定の張力を保ちながら絣模様を丁寧にあわせ、巻取る工程。
9.綜絖通し(そうこうとおし)
巻き取った経糸は、綾棒に通っている綾の順番どおりに綜絖の穴に一本ずつ通す。
10.製織(せいしょく)
作成したデザインをもとに、平綜絖や、浮糸を上下させる花綜絖を用いて模様を織り表わす。