更新日:2022年3月1日

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語り部:宮里信光さん

二〇〇八年(平成二十年)平和大使研修

沖縄戦体験者講和「戦争を体験した者として」

中部保護区保護司会 宮里 信光

全文

皆さん、こんにちは。只今、紹介を賜りました
私、古謝村生まれ、古謝育ちの宮里信光という者でございます。何しろ、名字がお宮様の「宮」とふるさとの「里」、そして「信ずる光」と書き表しますから、現役の頃に時々、「クリスチャンですか?」と尋ねられた事があります。もし、クリスチャンになっておれば、今頃はバチカンの小間使い位にはなっていたのではないかと思います。
本日は、沖縄市役所の平和・男女共同課から平成20年度の沖縄市平和大使の皆様に対する「戦争体験者講話」と題しまして、皆様が平和大使として役立つようなお話をして欲しいという依頼を受け、少しでも皆様のお役に立つ事ができるのであればと思い、喜んで来ましたので宜しくお願い致します。
私自身のことで恐縮ですが、1歳の時に両親が離婚。私は母を憎み、恨みに思い続けて生きてきました。
何故なら、祖父母から常々、母の悪口だけを言い聞かされ育てられてきたからです。ところが、最近になって離婚の原因を知ることができました。その原因は何かと言いますと、祖母が私の母に対して非常に厳しく、お産後間もない母親の衣服類やオムツの洗濯をしてもらえず、その頃は産婦人科と言う病院もありません。
もちろん産婆さん?今で言う助産士もなく、医学的知識もなく、まるでアフリカやアマゾンの奥地で出産するようなものです。パンパース等もあるはずもなく、おしめがパンパースの役目を果たします。もちろん洗濯機等はなく、寒い冬の日でもタライに水を入れ、その中で手で洗うのは重労働ですが、それもしてもらえず、何と!食事らしい食物も与えられず、母の体は日に日に痩せ細り、歩く事は無論、立つ事すら苦痛になり、お乳の出も日に日に少なくなってきたそうです。
「このような状態が続けば、二人とも死んでしまうのではないか?」と危機感を持った母方の人たちによって、無理矢理、です。
私は貰い乳や山羊の乳で育てられ、離乳と同時に母方の一人暮らしのお婆さんに育てられました。
私はいつでもお婆さんと一緒です。眠る時は、お婆さんが私をしっかり抱きしめ、お婆さんの温もりの中で安心して眠ることができました。
お婆さんが畑に行く時は、ひとつのモッコ(畚)に堆肥を乗せ、片方のモッコに私を乗せて、何と!畑に連れて行ってくれます。
そして芋の葛を刈って、それを束ねて葛の上に私を乗せてから芋掘りの仕事を始め、芋を掘り終えると、芋をモッコに乗せ、片方のモッコに私を乗せて家路へと急ぐ。
またお婆さんは明るい性格で前向きで、気軽に隣近所の人たちに私を預け、時々、泡瀬の町に野菜や芋売りに行きます。
月に一度は、大阪の紡績工場で働いている母から送られてくる私とお婆さんの生活費を受け取るために出かけていたそうです。貧しいながらも心豊かなお婆さんの愛情を一身に受け、隣近所の人々に支えられながら楽しい夢のような暮らしが五年間続きました。
ところが、今から63年前の10月10日、沖縄にいわゆる「十・十空襲」と言う魔物が襲い掛かってきたのです。急にアメリカのグラマン戦闘機が沖縄の空一杯に広がり、那覇の街に容赦なく爆弾を落とすのです。建物という建物、すなわち学校や民家等も焼き尽くされました。以来、私たちの住む古謝の村にも戦闘機が飛んでくるようになり、爆弾を落とすのです。
そして日に日にアメリカのグラマン戦闘機の数や飛んでくる回数も増え、とうとうヒッター森が焼かれました。「ヒッター森とは何か?」と言いますと、火を燃やす森という意味で、沖縄のはるか昔、いわゆる戦国時代、アマワリと護佐丸の時代に、勝連城に不穏の動きが起こった時に火を燃やして中城城に知らせるための森で、何処にあるかと申しますと、美東小学校近くに給油所がありますが、その給油所から五〇〇メートルほど行くとホットスパーがありますね。その手前の坂道を上って行き、約五〇〇メートルほど行った右側の小高い場所が「ヒッター森」と呼ばれていました。
その山が焼き尽くされ、いよいよ古謝部落の人たちは落ちついておれず、何度も、「何処にすべきか?」「どう行動すべきか?」等の話し合いを持ち、班毎に又は親戚同士で話し合いを持ってもまとまらず、家族で山原に疎開する者、島尻に避難する人たち、あっちへ行ったり、こっちで相談したり、人々は浮き足立ち、右往左往の日が何日も続きました。
私の父や伯父たちは、沖縄の島を守る防衛隊として出兵しており、家に残っている大人の男の人はおじいさん一人です。私たち家族も、祖父の友人を頼って、現在の北美小学校近くにある池原の部落に疎開しました。その家は屋敷がとても広くて、みかんの木が沢山あり、色づいた実がたわわに実っていました。
私たちはひもじさの余り、みかんを盗んで食べてしまったのです。その事を知った祖父は「二度と泥棒をさせてはいけない」と考えたのでしょう。祖父の友人の止めるのを振り切って、古謝の部落に帰ってきました。
戦争はさらに激しくなってきました。私たちの防空壕は、人家から50メートルほど離れた小高い所にあり、防空壕の入口は11ヵ所で、奥行きも広いところでした。
空襲警報のサイレンが鳴り出す度に、何度も防空壕に駆け込んだことを覚えています。子どもながらも「アメリカの戦闘機が飛んで来ないで欲しい、来ないで欲しい」と願っていたら、あの恐ろしいグラマン戦闘機が何十機も編隊を組んで飛んできて、爆弾を落とすのです。
爆弾は唸り声を上げ、どす黒い煙を撒き散らしながら落ちてきます。しばらくすると、物凄い地響きが起こり、地面がゆれたかと思うと、今度は凄まじく大きな火柱があちこちで立ち上がりました。
古謝の部落の人々の家が、あっちでもこっちでも何人の目の前でも家が燃え一、います。瓦が割れて、飛び散る音が聞こえます。火柱を上げ、もくもくと空に飲み込まれるように、どす黒い煙をはきながら燃えているのです。人々は皆、恐くて恐くて、声を出すことも泣くこともできず、ただただ震えているだけでした。
私たちの隠れていた防空壕も、いよいよ危険になり、アガリメントグゥワーのお爺さんの誘いに乗って、トォーヌクシのお墓の中に避難することになりました。トォーヌクシが何処にあったかと言いますと、泡瀬二区の山側に門三ちゃー墓がありますね、その北側の山をトォーヌクシと言います。門三ちゃー墓から北に150メートルほど離れた所にあるお墓の中に、祖父母の家族5人、アガリメントォグワーの家族4人、それに私と私のお婆さん合わせて11名で隠れる事になりました。お墓の中は薄暗く、天上から時々、水滴がポタポタと落ちてきます。
私たちは、何日も何日もお風呂に入っていません。顔を洗ったり、歯を磨いたり、身体を洗ったりした事もなく、頭にはうじゃうじゃいて痒く、着物の洗濯もしないで着のみ着のままの生活です。
その着物にはノミがいっぱいいて、いつも私たちの血を吸うのです。
オシッコも、何とウンコもお墓の中でしなければなりません。お墓の中は畳四つ分の広さがあり、更に奥は三つの階段に分けられ、人の骨を入れる甕が所狭しと置かれていました。
一段目のズシ甕とズシ甕の間にお婆さんが座り、その膝の上に私を座らせ、お婆さんは私をしっかり抱きしめてくれました。
祖父もアガリメントォーグワーのお爺さん一段目に腰を掛けていて、アガリメントォーグワーの昌正兄さんは三段目のズシ甕とズシ甕の間に隠れていました。
その他の人たちは、平坦部分にお布団をかぶり、身動きせず、息を潜めて座っています。
お墓の入口は、25センチから30センチほど開けてあり、お墓から20メートルほど離れた所には、収穫前のサトウキビが4メートルも5メートルも伸びた畑が広がっておりました。
空には戦闘機が行き交い、動くものには容赦なく機関銃の弾がダァダァダァと打ち込まれます。遠くで、あるいは近くで爆弾が落とされ、地響きを立て、バーンと炸裂、私の小さな胸はえぐり取られるような思いでした。
それでも、あたりが夕闇に包まれてくると、私たちは元気を取り戻します。祖父母たちが闇に紛れて家に帰り、家畜に飼料を与えたり、芋を煮たり、食物を得るためにお墓の中から飛び出すのです。
その動きにつられて、お爺さん、お婆さんの後に続いてお墓の中から飛び出して家に帰ります。
帰宅途中に照明弾が炸裂すると、真昼のように明るくなり、地面に這いつくばった事もありました。
そのような日が続いた四日目のことでした。私たちの隠れていたお墓の中に手榴弾が投げ込まれたのです。
アガリメントォーグワーのお爺さんは、胸から上部にかけて抉り取られて即死。
一番奥に隠れていた昌正兄さんはお腹を抉り取られて内臓が飛び散り、私たちの頭上には血や肉片がポタポタと落ちて来るのです。
また平坦部にいた正順伯父さんも額に被弾、伯父さんはひと声、ふた声叫びましたが、口をふさがれ、痛さのあまり体をバタつかせていました。
何の薬もなく、手当てをすることもできません。
その日の夕闇に紛れて、避難場所を変える事になり、いざ墓の中から出る時になって初めて、私の最も大切なお婆さんも被弾している事を知りました。
「私は動くことができないので、この場に残ります」と言った後に、紐で首から下げていた大切なキンチャタを祖父の手に渡して、私の今後のことを頼んで、お婆さんは一人でお墓の中に残り、死へと旅立って行ったのです。
私たちは避難場所を変えたその日の内に捕虜となり、泡瀬の収容所に連れて行かれました。
捕まってから四日目に正順伯父さんは破傷風で死亡、それから三日後に古謝の部落に帰って来ることができ、祖父宅での生活が始まりました。
敗戦の中で最も大切なお婆さんを失い、頼りになるはずの母方の人々や親戚の人が一人もいないどん底生活の中で、私の心を癒して下さる方がいました。
明かり一つもない暗闇の夜、遠くから流れて来るアコーディオンの奏でる歌の調べがありました。
「いにし秋、姉、妹、竹刈り遊びしかの松山。幼き頃の思い出が、あの懐かしき夢と残る」ですから、私は今でも童謡が大好きです。
父の再婚を機に、私は継母に育てられました。継母は、私を大切に良くしてくれるのですが、自分の命を掛けて生まれてきた子ども達とは何処か違う。
私は小学校四年生の頃から、朝は四時に起こされ、弟か妹をおぶって大きな鍋(シ)に茅やナジチューの枯れ草を蒔代わりに燃やして、芋を煮る夜が白々明け始めると、二つのモッコを担いで馬草刈に出かけ、その後、朝食をとってから学校に登校し、午後の授業では子どもをおぶって行った事もありました。
授業終了後の遊びも許されず、帰宅し、馬草刈り、田・畑仕事、その事を作文に書いて学校に提出したら、祖父に知られ、親族会議で皆にこっぴどく叱られました。何故なら、四つ年上の伯母さんや一つ年下の伯父さん達には何の仕事の手伝いもさせてなかったからです。
人間は生まれ育った環境によって最も大切な性格の基礎が作られます。私は祖父に厳しく扱われ、「イチマンウイスンド!(糸満に売り飛ばすよ!)」と言われ、夏冬の夜八時頃、泡瀬の海中道路まで引きずって行かれたこともあります。
私は寝小便はする、とうとう親のお金に手を出し、祖父に顔や手にお灸を据えられ、小学校の頃には何度も家出を繰り返しました。
家出時の食物は桑の実、グワバ、大根、砂糖キビ、食べられる物は何でも口にしました。寝る時は、製塩工場の枯れ草の中。
学校の職員会議で、私の事が問題として取り上げられることが多く、その日も私の事が問題となったようです。
このような私を救って下さったのは、小学校四年生時の担任の渡日節子先生と確信しております。
その日も、私の事をある先生が厳しく批判したのでしょう。放課後、私に残るように指示されました。「今日もあなたのことが問題となりました。でも先生は、あなたは素直でとても良い子だと信じている」と言って下さいました。人間愛に飢えていたこの私を未婚の先生が、節子先生が抱き締め、大粒の涙を流して下さいました。
私はその日以来、「渡口先生が悲しむような事だけは決してしない」と子供ながらに誓いました。人間は心の奥底に描いている通りの人生を歩むという諺があります。また喜びが、喜びながら喜びを集めて、喜びにやってきます。感謝して喜びながら生きていれば、喜びが雪だるまのように大きくなり、きっとみんなを元気にしてくれます。
私は社会に対して大きなことはしなくても良い、妻や子を大切にし、温もりのある家庭を築く事を誓いました.私には、一人の娘と一人の息子がいます。
その娘が25歳の時に、私に対して「お父さんに感謝したい事が二つある。一つは、自分たちが物心付いた時から大人になるまで、欠点を指摘したことが一度もなかった事。二つ目は、いつも長所を誉めてくれた事。
だから私は、お父さん、お母さんの子として生まれて、世界で一番幸せ者だ」と話してくれました。
ここで話の内容を少し変えます。私はこの世の中で人間の身体ほどすばらしいものはないと思います。
我が国の美容の大家である「メイ牛山」さんが講演を終え、ひと休みしている所に、若い女の子が走り寄って来て、「先生、綺麗になる為にはどうすれば良いですか?」と尋ねたところ、先生はニコつと笑って、「いつでも綺麗になろう、綺麗になろうと念じなさい。そうすれば、貴女は綺麗になります」と答えたそうです。声楽家は、人間の身体は楽器であると表現しています。
先月、朝の「みのもんた」のテレビ番組の中で、ジャマイカのウサイン・ボルト選手が百メートルを9秒72の記録で走ったと報道されました。スポーツ選手は、競技種目によって身体つきが変わってきます。諦める事なく頑張れば、道は開かれます。いや、夢は叶えられます。
最後になりましたが、皆さんにお願いがございます。私も皆さんと同じ年の頃には、「自分が生きる価値があるのか。
自分は、親に生んでくれと頼んだ覚えがない。勝手に親が作ったのだから、自分がどう生きようが死のうが、俺の勝手だ!」と思った時期がありました。ですが、皆さんがこの世に誕生するためには、何億という精子の中を戦い抜いて、勝ったもののみが初めてこの世に誕生することができるのです。ですから、皆さん一人ひとりが、皆さん自身の命を大切になさる事を信じて話を終わります。

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