更新日:2022年3月1日

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語り部:山里和枝さん

講話&ミーティング「~いのちと平和を語り継ぐ~」

  • 開催日時:平成二十四年年七月三十日(月曜日)
  • 開催場所:沖縄市会福祉センター・沖縄市男女共同参画センター複合施設集会室
  • 講師:山里和枝さん

大正十五年宜野湾市で出生。天妃高等学校卒業後、山形屋それから県庁の給仕を経て県防空監視本部勤務となり激戦の中、島田叡沖縄県知事と行動を共にする。戦後は結婚しまして子育てに目途がついた一九五○代後半から沖縄戦の語り部として沖縄戦末期の状況を通じ、平和の尊さを語れる数少ない語り部です。

全文

山里でございます。

私ももう九十近くの後期高齢でございまして、本当は皆さんにご理解出来るようにお話し申し上げるかとか不安もございまして、今回で講話を終わりにしたいと思いまして、一生懸命今日はお話ししたいと思ってますので、どうぞ皆さん我慢してお聞きわけ下さいまして、ご理解下さいますようにお願い致します。

今からちょうど六十七年前に、この小さなのどかな沖縄の島で、大変悔しい残虐な戦、殺し合いがございまして、私も当時十九歳でしたから、まだ今まで生かされていますけれども、当時沢山大変お世話になった先輩方、友達も最初は五十人仲間がいましたけれども、沖縄戦が始まると那覇から島の南部の摩文仁と言うところまで逃げて、本当は戦争が首里に軍の司令部がございましたので、首里で戦争終わっておれば憲兵軍の犠牲も少なくて済んだんですけども、軍のほうが島の果ての摩文仁まで後退する事になりまして、それも本土のほうから、本土の戦闘準備が整うまで、なるべく沖縄で一日も遅く、敵の戦いは逃してくれと言う事で、日本本土の準備が整うまで沖縄は一日も長く敵を足止めすることになって、三月の末から四月、五月、六月までの間に、沖縄の県民二十万あまりが、何の罪もない小さな赤ちゃんから年寄まで撃ち殺されてしまいまして、本当にもう大変悲しい悔しい思いをしました。

私も毎年五、六月になりますと、必ず島の南部のほうに供養に行きますけれども、一昨日も南部の最後の豪まで案内してきまして、慰霊の日になりますと、本当にもう恨み辛みは募るばかりでございます。

戦争さえなければ、沖縄は小さな島で、のどかな、大変皆仲良く親しく暮らしていまして、本当に戦争さえなければ、というような、今はもう年寄も皆殺されていませんで、せいぜい私が十九歳だったので、やっと今九十近くで生かされておりますけれども、本当に戦争さえなければ大変のどかな静かないい島でございました。そして戦後はまた、戦争が終わったらまた今は基地。ほとんど基地があるために、いろんな事故、事件もありまして、こんな小さな島はいつも、いつまでいじめられればいいのかと思って本当に悔しゅうございます。

私も十九歳の時に大変親しく可愛がってくださったお姉さん方を、戦中目の前で四、五人すぐ死傷しまして、最初五十人いた同僚が、最後は十一人になりましたけれども、その十一人がさらに南部の果てまで追われたために七人が撃ち殺されて二人が行方不明で、今二人だけが生かされています。私ともう一人、彼女も今健在でおりますけれども、戦中に片目、ただ目の下に一センチメートルぐらいの傷でございましたけれども、当時、消毒薬も治療薬も包帯も何にもないものですから、その目は本土から救援物資としてタオルと石鹸とかが送られてきましたので、包帯はなくて、傷口は全部タオルで巻いてましたので、その片目はタオルで巻いていたら、消毒も何にもしないものですから、蛆がわいてしまって、その蛆にこの片目は食い潰されて、今健在ではありますけれども、片目はもう蛆に食い潰されて駄目になってます。そして、また友達も目の前で一人はすぐ艦砲で喉元切られて、ただ「うーん」の一言で即死。一人はまた、右足を腿の付け根からもぎ取られまして、出血多量でその日には亡くなりますし、他の友達も四、五人目の前ですぐ即死と重傷を負いまして、医者もいないし消毒薬もないし包帯もないものですから、二、三日すると破傷風になりまして、これで死んでいき、五十人いた仲間が最後二人だけ残りまして、本当に沖縄戦はもう、・・・あんな残虐な戦はまたとないと思いますけれど・・・、

思い出して、私も戦後六七年間ずっと今まで思い続けてまいりまして、ある人から、「あんたはいつも悲しそうな顔ばかりしてるから、運のつきが悪いよ。」と。「いつも笑顔でいたら運もつくから、笑顔でいなさい。」と言われますけれども、どうしてもこの六七年間、笑顔で思いっきり笑ったという事もございません。笑顔になろうとしても、どうしてもすぐ当時を思い出して、悲しくなって、いつも寂しい、悲しい顔ばかりしかしていませんので、「だからあんたは運がつかないんだよ。」とよく言われますけれども、大変世話になった先輩方を亡くした事は絶対忘れられませんで、亡くなり方も、すぐ即死だったら本当にいいんですけれども、足をもぎ取られたり、手をもぎ取られたり、喉元を切られたり、一人はまた横っ腹を二十センチメートルぐらい切られまして、そこから腸が飛び出して、消毒薬もないし医者もいないし、その腸を押し込んでタオルで巻いてやったら、六月の沖縄は暑くて豪内もすごい暑いものですから、熱い苦しいと言ってこのタオルを取って捨ててしまったら、またこの腸が飛び出しまして、それで苦しんでまたこの腸を押し込んでまたタオル二枚で今度は巻いてしっかりくびってやったら、結局は二日目に亡くなりました。治療薬も全然ないし、包帯もないし、医者も現場になんかもいませんので、ただタオルでその傷を巻いたり、足をもぎ取られた人もタオルでただくびったりでございますので、二、三日では破傷風になって亡くなったりで、最初の五十人の仲間が最後二人だけ残りまして、その一人の私がまだ今までこう生かされてます。

本当は私も思い出して語りたくもないんですけれども、どうしても話を聞かしてくれ、聞かしてくれとおっしゃる方がいらっしゃいますので、仕方なく今までこんなに、まあ、してますけれども、あの沖縄戦のような残虐な戦は、またとまたあってはいけない。戦は、戦争は、人を殺すために、戦争では、どうしても敵を殺さなければ自分が殺されるから、どうしても殺し合いにしかなりません。だから絶対に戦争は起きてはいけない。あの当時の沖縄戦の場合でも、当時の日本の偉い方、当時の首相は、陸軍大臣も総理大臣も総務長官も、三権を兼ねていらしたそうでございまして、その偉い人の権限でもって沖縄戦を起こしてしまったら、結局偉い人達は、机の上に地図を広げて会議をするだけでございまして、一番その下の下級兵。二等兵ですね。その下で人民が、もがき苦しんで殺されてしまいます。だから、絶対に、若い人達が絶対もう戦争はいけないと、起こしてはいけないという事を戦争に反対して、これからは絶対に戦争がないように、戦は殺すための戦争でございまして、殺さなければ自分がやられるから、必ず殺し合いでしかございませんので、絶対、戦の無いことを願いますけれども、その国の偉い人達がまたもし戦を始めたとしたら、皆さんは絶対軍には協力しないで、人を殺さないで逃げて下さい。その方が、人を殺さないで逃げる事がまだいいんです。沖縄戦の場合も本当にみじめでございまして、戦争では、人間が人間でなくなります。私もそうでした。人間ではなくなっていました。逃げる途中に、道端で五、六歳の子が怪我して、「助けてくれー、助けてくれー。」と泣いていますけれども、ただ見てそのまま通り過ぎただけで、何にもしてやれませんでした。また、兵隊らしき人が石の上に座っていて、目は開いているけれども、指を目の前に持っていっても全然動きもしませんで、「あ、もう逝っちゃったかな。」と思ったけれども、水筒に水を持っていたもんだから、その唇に水をかけてやったら、舌で舐め回していました、生きていても生き仏みたいに、木の根にもたれて座っているだけでした。本当に戦争って嫌で、私なんかも、逃げる途中に橋を渡って普通の道を行ったら、その道は一晩で三五○人平均死ぬ魔の通りと言っていましたので、そこは通れないので、引率の兵隊さんが、「僕が探検して探してくるので、君達はそこで待っておれ。」って岩陰に三人座らされまして、私とあと二人でしたけれども、自分が探検してくるまでそこで座っておけって言って、そして二人はの岩陰に座っていて、私はまた、曹長が来るまでにその辺に隠れているという事で、そしたら、もう一人目の悪い人が、蛆にやられて片目になっていた人と私とだけがもう最後は残されていますけれども、その曹長が、各々その浅瀬の所がありましたので、そこを渡ろうということで、そこに死体を四人並べて、その死体を踏み潰してその川を渡りまして、そんなにまでして生きないといけないのかと、とてもその死体を踏んで渡る事が出来ないで私は突っ立っていましたが、その曹長が、「早く三段跳びで来い。またすぐ攻撃くるぞ。」と言うもんだから、仕方ない、もうその死体を踏んで、三段跳びで渡って、やっと豪の近くまで行けましたけれども、とにかく本当にもう人間でなくなるんです。戦争の時は。死にそうな人を見ても平気だし、殺すのもなんとも思わないし、死体を踏み潰す事もなんとも思いませんでした。これで、結局こんなにしても今までこんなに生かされていますけれども、いつでも友達からも、「もう少しあんた笑顔でいなさい。」と言われますけども、どうしてもその戦後六七年間、全然笑顔になれないんです。笑顔になろうと思っても、すぐその当時のあの悔しさを思い出しまして、全然笑顔になれません。

今も毎日悶々とただ生かされております、何のために自分は今までこんなにして生かされていても、ちっとも面白い事もないし、楽しい事もないし、その戦中を思い出していつも寂しい悲しい思いばっかりしていまして、それでもこの年まで何故生かされているのかと、悶々していますけれども。やっぱり亡くなった先輩達の供養を、是非しなければいけないという事で、毎年五、六月は私はいつも南部の激戦地に供養にお参りばっかりしています。二、三日前も二日間、中部から南部まで毎日一日中かけて供養に行っています。昨日も行ってまして、傷で大変痛み苦しんで亡くなった友達の、即死した友達の夢でもみたいと思って胸に手を当てて寝ても、絶対夢にも出てきません。それで私あるお寺さんのお坊さんに聞いた事あるんです。「その戦中の亡くなった大変親しかった世話になった先輩の夢を見たくて、いつも胸に手を上げて寝るけれども、全然夢にも出てきません。」と言ったら、その坊さんは、「いいや、あの人達の夢は絶対出てこない。」と。「彼女達は、自分は死んでいると思わない。」って。「即死しているから、まだ自分は死んでない、生きていると思っているから、夢なんかに出てこないよ。」とおっしゃいまして、今までも六七年間一度も夢も見たことございません。大変苦しんで亡くなった先輩方の夢でも見たいと思っても全然夢にも出てこないんです。

六七年間、本当に思い出したくもないし、語り部をして語りたくもなかったので、十四、五年前からしか皆さんにお話ししていません。

何故十五年前から話したかと言うことは、実は、戦争当時の県知事さんが、大阪の内政部長から四三歳の若さで沖縄県知事にいらっしゃいまして、その前の知事さんが、東京出張で行って、もう帰らなくて。結局、知事席が空席になっているもんですから。結局、前の知事さんは交渉して逃げたっていうことになります。最初から帰るつもりはなくて、東京出張しまして帰ってこない。知事席が空席のもんだから、結局、民の行政の権利まで全部軍が握ってしまおうと。戦争は本当は、軍と民と行政と協力して全てなんだけども、知事不在だから、軍が実権を握ってしまおうということになったら、内務省から「それはいけない。」と、「どうしても知事は、行政が知事がおくらないといけない。」って。それで四人の方に「沖縄知事に行ってくれんかどうか?」って相談したらしいですけども、みんな「知事にはなりたいが、沖縄なんか嫌だ。」と。とにかく死ににくることは間違いないですから、それは当然だと思いますけれども。知事にはなりたいが沖縄なんかだめって、四人の方が断ったそうでございます。そして最後の県知事、島田叡氏、今も皆さん、県民から大変尊敬されて、その県知事慰霊碑が摩文仁にございますけれども。この島田叡知事さんが四三歳の若さで「誰も行く人がなければ、自分がいこう」おっしゃって、結局四人が断ったその後に、いらっしゃいました。今も慰霊塔にも祀り上げられたりして、わずか三ヵ月、沖縄に赴任して三ヵ月で亡くなりまして。私も、本当は語り部なんかするつもりは全然なかったんですけれども、その大阪の内政部長から沖縄県知事にいらして三ヵ月で亡くなった島田知事のことは、ぜひ大阪の生徒さん達には伝えないといけないっていう思いがありましたので、大阪の学校だけの修学旅行の平和授業での話、大阪の学校にだけしかいたしませんでした。本当にその島田知事さんは沖縄の為にいらして、県民の為に大変ご尽力なすって、ただ三ヵ月で亡くなりましたので。そして戦後、この知事さんが島尻の壕で御一人だけ亡くなったっていう新聞記事がございましたので、私は知り合いの人とその壕を探しましたけれども、全然探せませんでした。大変悔しい思いをしております。大変立派な知事さんでいらっしゃいましたけれども。

戦争はもう人殺しみたいなもの・・・その小さな赤ちゃんから年寄老人まで全部、沖縄県民まで二十万あまりが撃ち殺されてしまいまして、今、平和の礎っていうが南部にございまして、そこに戦時中亡くなった人たちを全部刻銘してあります礎がございますけれども。もう何十万の人が刻銘されていまして。実は私事でちょっと恐縮ですが、私の姉夫婦もその礎に刻銘されておりますけれども、姉は臨月で、民間の壕に入っていましたっていう時に、男の子を産み落としまして、そして義兄はまた防衛隊で、南部の方に招集されていますので、姉も浅はかな考えで、南部に行けば義兄を会えると思ったんでしょうか。その小さな子を、名も付けていないその赤子を抱いて、また壕の中でみんなが「赤子は泣かすな、出て行け、出て行け。」と責めるもんですから、その赤子を抱いて島尻に行けば南部に行けば兄に会えると思って出たみたいですけれども、ふたりが会えたのかどうなのかもわかりませんが、未だにもって、まだお骨も拾えません。その三人の、そしてその礎には、その夫婦の名前の下に「其の子」って書かれているんです。名前まだ付けてないもんですから。そのふたりの子と書いて、礎に刻銘がされていまして、私も「其の子」を見るたんびに、もう本当に悔しい思いをしております。名もない子供までも、戦争で殺されてしまいまして。本当にもう恨み辛みはもう積もるばっかりでございます。こんな小さな島で、あんな戦争を起こしてしまった日本の偉い方々の最高幹部の方々が、ただ机の上で地図を広げて起こしてしまった戦争。大変もう悔しゅうございます。だからまたと二度とあんな戦争は絶対ないと思います。沖縄戦のような、あんな残酷な戦争はまたとないと思いますが、本当に若い方たちに「もし戦争があったら、絶対軍に戦争には協力しないで、非国民だと言われてもいいから、もう人を殺さないで逃げてくれ」と、私いつも講和の時にそう言ってます。本当に戦争は、敵だと殺さないと自分がやられるから、自然に殺してきますから、見られないように逃げたら、殺さないですむから逃げた方がいい。もう本当に年寄子供なんかは、何の罪もないのにあんなに殺されてしまって。それでまた私が大変、一つずっと思い詰めておりますことは、友軍が、敵よりは、敵のアメリカよりは、友軍が自分のその国民を、民族を殺してしまったことが、大変悲しい悔しい思いがします。壕の中に入っていました時に、お婆ちゃんが孫ふたりを連れて豪の中に入っている人がいまして、そしてそのお婆ちゃんは、結局はその子たちの、この子たちの親はどうなったかは、どうしてそのお婆ちゃんが孫ふたりを連れて入っているのかはわかりませんけれども、お婆ちゃんが黒糖だけをタオルに包んで、黒糖だけをその時はもうみんな食糧難で、黒糖だけをおっきな包みにみんな黒糖だけを持っていました。その黒糖をタオルに包んでくるんで持っている時に、子供が「お婆ちゃん、黒糖食べたい、食べたい。」って。何しろ食べ物何にもなくて、ひと月もう全然食事してない、みんなしていませんので、黒糖が命ですので「黒糖食べたい、食べたい」って泣く子がいて。そしてこのお婆ちゃんが、これはもうあと何日そこで生かされるか知らんから、やたらにこの黒糖をやるわけにもいけないから、小分けして少しずつやったら、また子供は「砂糖食べたい、食べたい。」って泣くもんですから。友軍の兵隊が来て「子供は泣かすな、子供泣かしたらこの壕に人間がいることを敵に察知されたら、全部攻撃されて全滅するぞ」と。「だから絶対子供は泣かすな。」って言うけども、その兵隊が来て怒鳴る時は、その子は黙っていますけれども、兵隊がいなくなるとまた「砂糖食べたい、お婆ちゃん砂糖食べたいよ。」って泣くもんですから、今度兵隊がまた来て「いくら言ってもわからんのか。なぜ泣かすんだ。」と言ったら「この黒糖食べるって言って泣いているんですよ」って言ったら、この兵隊がこの黒糖は取り上げてしまったら、この小さい子は「これは僕のだ。」って、この兵隊に飛びついたら、その黒糖取るため飛びついたら、その拳銃一発でこの子を撃ち殺してしまいまして。そしてお婆ちゃんは、もうこの子を撃ち殺されても、大きな声だして泣き喚くわけにもいかないし、また泣いて声出して泣いたら、上の子までまた撃ち殺されてしまうと思って、もうこの子を死んだ子を抱いて、しくしく泣いていましたけれども。もう本当あれを見た時から、私はもう敵はアメリカではない、友軍だと。もう敵愾心(てきがいしん)を友軍に向けるようになりまして、今まで軍に協力してきたけれども、もう軍に協力する必要はない。かえって友軍が、日本兵が敵だと思うようになりまして。だからそれからはもう友軍には、友軍の手伝いは何もしませんで、黒糖も何もやりませんで、本当に戦争の時は、みんな友軍だけじゃなくて、あとはそうなると思うんですけれども。本当に自分の身内を、自分で殺してしまうような戦になりますので。

本当に二度とあんな戦争起きないとは思いますけれども、戦争が起きたら絶対に逃げること、軍にも協力しないで逃げることだと私は今もいつも子供たちにもそういう風に言い聞かせています。本当に戦争は人間が人間でなくなるけれども、私も本当、確かにそうしてきましたし、人間でなくなっていましたし、人が死ぬの見ても全然可哀そうだとも思わないし、「助けてくれ。」って言っても見捨ててそのまま通り過ぎてしまったし。死んでる死体を踏み潰しても何とも思いませんし、本当に戦争ってもう本当にもうひどい、もう憎い悔しい悲しいもんで。その戦争を起こした偉い人達が、大変憎いんです。その起こす国の高官たち、偉い人達は、壕の中で寝たり、自分のその官舎でいて、全然痛みも苦しみもございませんけれども、一番その下二等兵、一番悔しいのは、沖縄県の場合、結局県の一番優秀な学徒達、剣術一級の生徒さんとか、師範学校の生徒さん、沖縄県で一番優秀な学徒達、彼達は卒業すれば、教員か官吏になる優秀な人達が、十七歳、十五、六歳から二等兵。二等兵っていうのは軍の二等兵っていうのは、本当は戦前は二十歳に徴兵検査っていうのがございまして。二十歳になって徴兵検査して、体格のいいの学問のあるの甲種合格、乙種合格、丙種合格っていう風にあったんですが、戦中はもう甲種も丙種も何もございません。十七、十五、六歳から中学卒業と同時に軍に入り二等兵になりまして、本当に未来ある前途ある優秀な学生達が、その歳で沖縄の南の果てで、今礎のあるところが大変激戦地でございまして、そこでみんな撃ち殺されてしまいました。もうこれだけは、本当に悔しいです。本当に彼達が、師範学校の生徒さんなんかより彼達が元気でいれば知事にもなれたはずだし、弁護士にもなれたはずですけれども。わずか十五、六歳で、軍入りで二等兵で南部の果てで撃ち殺されてしまったことは、大変悔しい、大変悲しい思いです。だから戦争っていうのは、絶対にあってはいけない。もしあったにしたら、もう軍には協力しないで逃げた方がいいです。逃げて壕にでも隠れて。沖縄の場合は、壕、自然壕っていうのがあちこちありまして、逃げ場はたくさんあります。海岸にいくとみんなその自然壕に隠れて、助かった人もたくさんいますけれども。あとでまたその友軍に撃ち殺された人もたくさんいます。それでもう、とにかくあの戦争は人殺し以外の何者でもないから、絶対戦争はあってはいけない。もしこれから戦争が起きたりしたら、もう皆さんは絶対人殺しはしないで、逃げて下さい。それだけは私、子供たち孫たちにもしょっちゅう言います。人を殺すよりか逃げた方がいいんだと。もう戦争、もう沖縄戦のようなあんな残虐な戦は、また二度とないと思いますけれども。本当にもう沖縄戦は大変残虐な悲しい悔しい愚かな戦でございました。偉い人達が、決めなければ戦争はなくて、そんなにたくさんの何十万の県民が死ななくてもよかったんですけれども。そのわずか二、三ヵ月の間に二十万あまりの県民が撃ち殺されてしまいまして、本当にもう悔しいです。今私も、五十人の内から二人だけ生かされて、ひとりはもう片目で、目だけならまだいいけど、耳も聞こえんから、電話しても電話は全然聞き取れないし、娘さんが通訳しないと話も通じませんので、もう長いこと行ってもいませんけれども。私だけがこんなに生かされて、この六七年間いつも思うんです。大変悲しい悔しい思いは絶対忘れることができません。生かされてる限り、まあ後一、二ヵ年生かされているかもしれませんけれども。生かされている限り、その戦争の悲しい悔しい思いだけで、死んだ人たちへの供養だけがもう六七年間、亡くなった親しかった友達の供養だけしか頭にありません。本当にあの戦っていうのは、まったくあんな沖縄戦みたいな残虐な戦はないと思いますけれども、大変悔しいです。だから皆さんもこれから、将来偉い人になって、もし戦の話があった場合には、絶対にその戦争には反対して下さい。戦争は人殺し以外の何者でもない。結局、人殺しする為に戦争するんですから。戦争さえなければ殺さないですみます。戦争さえ起こさなければ、殺さないですみます。人殺し以外のなんでもない、なんでもないこの戦争。

しかし沖縄戦みたいな戦争は絶対にこれからまた、二度とない思います。戦争のない平和を願って一生懸命いますけれども、その国の偉い高官方は、また結局国と国とのことですから、いつどんな風になる、また戦争になるかもしれませんけども、とにかくもう戦争だけはもう絶対に、ひとりでも殺してはいけない。もう人ひとりを殺したら、一生自分はそれを背負って苦しんでいかなければいけません。私なんかも、助けられる人もいっぱい見殺しにして、助けてやらないで自分だけ逃げてきたことを、しかし今思い返しても、自分達ではどうにもならなかったこと、助けようにも絶対助けられない。自分が何にも役に立たなかった、助けられる人も助けないで逃げたことは、もう今もずっと六七年間思い続けていますけども、とにかく戦だけは絶対にないように、それからその若い方たちが一生懸命勉強して頑張っている姿勢を、平和であるように、戦争のない平和であるように、負けずに努力してもらいたいと思います。本当に今日はもう全然面白い話でなく、大変悲しい悔しい話ばかり申し上げて、すみませんでした。遠いところからお来しになって下さいました皆さんありがとうございます。

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