現在、竹細工職人として生計を立てているのは県内でも津嘉山さん一人ではないだろうか。それほど少ない職業である。 津嘉山さんと竹細工との出会いを聞いてみた。 「実は自分は三代目なんです。父も祖父も竹細工の職人でした。幼少の頃から父親の仕事を手伝っていたんです。小学校五、六年生の頃には、けっこううまくなり、アルバイト代として5セントをもらっていたんです」と笑う。当時は竹細工の本場、北谷町に製作所があり、小学生の頃は山内や諸見里の山へ竹を取りによく行っていたという。それから、中学・高校の時も手伝いは続き「ほめられるごとに腕をあげていったんです」と振り返る。やがて琉球竹細工の技術を伝授され、約十七年間の修行を経て独立する。平成元年に入門した父親の工房から独立、同じく北谷町に工房を構えた。そして平成九年に八重島に移転、現在は八重島の工房で竹細工作りに専念している。 津嘉山さんが県工芸士と認められた課題作品は「バーキ」。沖縄の伝統的な竹細工であるバーキの編み方の基本をきっちり学び継承している本人は「ティールやミージョーキ、ウーバーラー、サギジョーキなど沖縄の竹細工の技術はいやというほどたたき込まれましたよ。しかし、今は花器や菓子籠、舞踊の小道具などの注文が多く、なかなか自分の作品はつくる時間がないんですよ」とニガ笑い。竹細工の腕前としては、平成五年に沖縄で行われた全国植物祭で皇后が使用した「お手植えの苒木入れ籠」を製作。翌年には伊是名村の神殿「ニカヤの田の阿母」が乗る「ミアンダ籠」を製作した実績から、いうまでもないだろう。竹細工については「不器用、器用の個人差はあるが努力が九〇%と思っている。自分も道半ばでまだまだだが、こういう仕事は忍耐が大切、なまけようと思えばそれも勝手だし、自分との闘いなんです」と悟す。 本人の信条である、「わんがさんねーたーがすが」という責任感、使命感がそうさせるのだろう。今後は沖縄の伝統である竹細工を広く子供達に伝えていきたい。「子供達の体験学習の場をもっと増やしてほしいですね」と行政に注文も。「定みたる年に志立てて思い残すな我が身定み」工房にあった本人の琉歌を記して閉じる。 |