今月の人

ここにしかない「コザブランド」を発信したい

244. 桑江 哲(さとる)さん(43)

桑江 哲(さとる)さん

沖縄市上地の通称「中の町なかどおり」に各青年会の衣装を着たかわいらしいエイサー人形が展示された街灯が並んでいるのをご存じだろうか。今回ご紹介するのは、そのエイサー人形やエイ坊の着ぐるみを制作した桑江哲さん。桑江さんは本市で盛んなエイサーを地域資源として、ここにしかない「コザブランド」を発信したいと考えている。今回はそんな桑江さんに今後の展望について話を聞いた。

桑江さんはもともと物づくりや絵を描くことが大好きなこどもだった。高校卒業後、油絵を学ぶため東京の専門学校に入学し、そこで版画や彫刻などいろいろ学ぶ。卒業後、その専門学校の講師の試験に合格し十八年間講師を務め、生徒に物づくりを教えていた。東京での仕事も楽しかったが、通勤に片道二時間もかかる生活で、こども達との時間も取れなかったため、五年前、長女の小学校入学を機に沖縄に帰ってきた。

沖縄に帰ってきて一年ほど販売業などをしていたが、障がい者の就労支援をしているNPOエンジェル工房と縁があり、自身の工房でこれまでの講師をしていた経験を生かし、障がい者へ人形制作や物づくりの技術指導をすることになった。現在、八人の作業員が自分たちのペースで制作を行っている。

桑江さんの工房では、立体造形物(フィギュア等)やオリジナルTシャツなどを主に制作している。今回、沖縄市のエイサーキャラクター「エイ坊」の着ぐるみも初めて作成した。今は、着心地を聞きながら改良をしている段階で、失敗を重ねながら成長していきたいと語る。

桑江さんは、本市で盛んなエイサーを地域資源として、ここにしかない「コザブランド」を発信したいと考えている。昔の沖縄市で米兵向けのバーの前に掲げられていた「Aサイン」の看板を「Eサイン」に替え、エイサーグッズを扱っている店に掲げるアイディアや、各青年会の衣装をつけたミニエイサー人形を作るなど、アイディアはまだまだたくさんあるそうだ。もうひとつ、現在行っている障がい者への技術指導を一歩すすめて、障がい者の雇用や自立への道筋を作る支援をする自身のNPO団体を立ち上げていきたいと考えている。障がいの程度で仕事に結びつかなくても、アーティストとして生きがいを見つけるきっかけになってくれればと思いを巡らせている。

桑江さんへのインタビュー中、その隣で桑江さんの二人の娘が絵を描いていた。桑江さんはこども達の書いた絵をひとつ残らず取っており、その数は段ボール数箱にも及ぶそうだ。沖縄で家族との充実した時間を過ごしながら、夢へ向かって進んでいく。

▼戦後文化シアター 今月のヒストリート

市史編集担当/TEL:929-4128
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車は左を示す「730」のロゴ。
▲車は左を示す「730」のロゴ。

「ヒストリートII」では、復帰四〇年の企画展を開催中です。写真やモノ資料を中心に復帰後の沖縄(市)を展示。その中から、今回は「730(ナナサンマル)」を紹介します。

復帰に伴い県内一斉に交通方法が変更されたのは、一九七八(昭和五三)年七月三〇日でした。米軍統治下の二七年間と復帰後の六年を含め三三年間に及んだ車の「右側通行」がこの日から「左側通行」に変わったのです。交通方法の変更は、残された復帰処理の最大の課題といわれ、「一国一交通方法」の国際交通条約の遵守と交通上の危険防止を目的に閣議決定され、以後「730作戦」が展開されていきます。

しかし、交通方法の変更は日常生活や経済活動に及ぼす影響が大きく、実施が近づくにつれ県民の不安・動揺は増大し、変更反対や延期を求める強い声もありました。

不安を残しながらも作業は、二九日の午後一〇時のサイレンと共に開始、三〇日の午前六時を期して、沖縄では全国同様の新交通ルールがスタートしました。ゴヤ十字路の交差点では、交通世変わりを一目見ようと黒山の人だかりができ、道路は変更に戸惑うドライバーたちで渋滞。各地でも事故や交通マヒが続発したようです。

復帰後の沖縄を大きく揺るがせた「730」は、県民の暮らしを大きく変えた出来事であり、戦後沖縄の歴史の一コマです。