更新日:2022年7月6日
ここから本文です。
北谷中学校の南側に位置する市内最古の遺跡です。
この遺跡から約1万年前の旧石器時代の人骨が出土し桃原洞人と名付けられました。人骨は完全な形の出土ではなく、成人した男性の頭蓋骨の一部のみで資料は現在東京大学に保管されています。
(2008年8月5日 更新)
仲宗根貝塚および馬上原遺跡の立地する石灰岩台地は、北側で落差10mの崖となり、その先は緩やかな斜面となっている。その緩斜面に室川貝塚が立地する。標高は100m前後である。1974年に発見されて以来、沖縄国際大学により5次にわたる発掘調査が行われ、沖縄の先史時代の解明に大きな成果をもたらした。
主な調査成果として次のことがあげられる。当時としては最古であった室川下層式土器が出土したことや、室川・室川上層式の設定、伊波・荻道式土器の前後関係が判明したこと、石鏃の所属年代がはっきりしたことなどである。蝶形骨製品も多数出土している。
1989年より、沖縄市役所庁舎の建設に伴い貝塚の取り扱いについて調整・協議が行われた。その中で、沖縄国際大学が調査した地点を保存し、その周囲を記録保存調査することになった。
歴史公園として整備された室川貝塚は、市指定文化財に指定されている。
なお、室川貝塚・仲宗根貝塚・馬上原遺跡は、その所属年代や遺物内容などから、広範囲に展開したひとつの遺跡であると考えられている。
(2012年9月10日 更新)
沖縄市役所近くに位置する遺跡です。室川貝塚から馬上原遺跡及び仲宗根貝塚一帯にかけての広範囲に約5000年~3500年前までの集落と貝塚が分布していました。
出土遺物には、土器・石器・陶磁器・類須恵器・骨製品・貝製品・人骨・鉄器、貝塚時代中期の抜歯された人の顎の骨も見つかっています。また、グスク時代の玉も発見され、なんらかの祭祀が行われていたと考えられています。
(2008年8月18日 更新)
沖縄市民会館から東に約250mのところにある3500年~2500年前の貝塚です。この貝塚からは石器、貝殻、獣骨などが出土しています。湧泉のヤシマガーを石炭岩崖下にはさみ、貝塚の典型的な立地条件を備えています。
(2008年6月30日 更新)
知花十字路より西へ700m、南北に走行する沖縄自動車道一帯に知花遺跡があった。標高80m前後の石灰岩丘陵上に立地する貝塚時代前・中期の遺跡である。
遺跡の北方を比謝川の支流が流れており、西方300mにはアカイジュマーと呼ばれる水量豊富な湧水がある。本遺跡は発見された時点で石灰岩の採石によりほぼ壊滅状態にあった。
したがって検出された堅穴遺構の一部や柱穴も様子が判然としない。遺物は土器や石器や骨製品などが出土しており、なかでも石器の出土量が多い。
沖縄自動車道の建設に伴い記録保存調査が行われ、遺跡は消滅した。
(2014年2月10日 更新)
標高110mの石灰岩台地に立地する。北東側は崖となり、直下に室川貝塚がある。南東には仲宗根貝塚があり、わずか150mしかはなれていない。
本遺跡は室川貝塚の記録保存調査に伴って発見された。竪穴住居跡が二基検出され、貝塚時代中期のものと考えられている。また、出土遺物は土器と石器に限られている。
(2015年7月2日 更新)
津嘉山森遺跡は、古謝集落の北600mの地点に位置する。標高100mのクチャの丘陵に石灰岩が乗っており、一帯はうるま市との境界になっている。その石灰岩の付近から、沖縄貝塚時代の室川下層式土器やグスク土器などが表採されている。1988年に開発に伴う試掘調査が行われたが、うるま市側も含めて遺構や遺物包含層は検出されていない。
(2015年12月24日 更新)
県立美里高校の裏手、標高70mの石灰岩丘陵に立地していたが、採石により破壊されたと考えられる。貝塚時代中期の土器が表採されているが、その後の分布調査では確認できていない。今回の分布調査でも確認できなかった。
(2016年2月4日 更新)
沖縄こどもの国の北方200mの崖斜面でわずかな遺物の散布が見られた。現在では住宅化が進行しており、遺跡の確認は難しい状況となっている。
(2016年3月17日 更新)
八重島貝塚の南方150mにある石灰岩丘陵上に、伊波・荻堂式と見られる土器の粒が散布している。
(2016年3月24日 更新)
泡瀬通信施設の東に広がる干潟上に、貝塚時代中期の土器が散布している。詳細は不明である。
(2016年3月31日 更新)
公開までしばらくお待ちください。
(更新日)
公開までしばらくお待ちください。
(更新日)
公開までしばらくお待ちください。
(更新日)
ギイクグシクと呼ばれた越来グスクは、標高80m前後の石灰岩丘陵上にありました。古老によると頂上は現在より高い場所にあり、東の海が見えたということです。
越来は沖縄島中部の重要な地域でした。のちに琉球国王となる尚泰久、尚宣威が王子時代に領有しており、彼らは越来グスクに住んでいた可能性があります。
発掘調査では、14世紀から15世紀の建物や炉の痕跡、墓、貿易陶磁器や青銅鏡片、石製勾玉等の貴重な資料が多数見つかっています。
また越来グスクは古い歌謡集『おもろさうし』に登場し、歌の中で琉球の創造神と語られる「アマミク」が作ったグスクと称えられています。アマミクが関わったという伝承、そして琉球独自の特徴を持つ聖地として、国指定名勝「アマミクヌムイ」に追加指定されました。
越来グスクのあった場所は開発により丘陵が失われ住宅地や公園になっていますが、公園内の拝所はグスクがあった過去の記憶を今に伝えています。
(2022年7月6日 更新)
知花十字路の北西に位置する小高い丘陵です。『おもろさうし』にもうたわれているグスクで、鬼大城の最後の地としても有名です。
丘陵は地質と動植物の分布上貴重な位置にあり自然観察に最適なところです。また、グスク頂上の展望台からは市内はもとより嘉手納飛行場や石川の山々、具志川市などが一望できます。
(2008年10月20日 更新)
知花遺跡が立地する標高80m前後の石灰岩丘陵南端に占地していた遺跡である。崖下にも包含層があったが、それは丘陵からの投棄と考えられている。両者に時期差はない。出土遺物にはグスク土器や青磁・白磁・類須恵器・石器などがある。葉脈痕をもつ土器の底も確認されており、クワズイモと考えられている。
遺構は土壙や柱穴などが検出されている。
沖縄自動車道の建設に伴い記録保存調査が行われ、遺跡は消滅した。
(2013年11月18日 更新)
公開までしばらくお待ちください。
(更新日)
公開までしばらくお待ちください。
(更新日)
公開までしばらくお待ちください。
(更新日)
公開までしばらくお待ちください。
(更新日)
公開までしばらくお待ちください。
(更新日)
公開までしばらくお待ちください。
(更新日)
公開までしばらくお待ちください。
(更新日)
公開までしばらくお待ちください。
(更新日)
大里集落の入口にあったニービの丘陵のことをアマグシクと呼んでいました。現在は、平坦地となっており、戦後の郡道工事により地形改変された可能性が高いです。
遺物が表採されたという記録はなく、地形も消失しており、遺跡かどうかの確認はできないものの、グシク地名の例としてとりあげられます。
(2009年12月7日 更新)
知花集落内にある。標高約50mで、すぐ西側を比謝川が流れている。壁面で陶片が確認できる地点があるものの、窯の跡なのかはまだ確認できていない。一帯にはチブヤヌサチー(壺屋の先)という地名が残っている。
(2013年3月25日 更新)
沖縄葬斎場の南側に位置し、大正の末期に那覇の壺屋焼の流れをくむ島袋という陶工によって造られました。窯は昭和の初期まで使用され、付近からは日用雑器や甕(かめ)などの陶片が出土しています。
(2008年4月7日 更新)
お問い合わせ