更新日:2025年3月24日
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アマミクヌムイ(越来グスク)
越来グスク 遠景
越来グスク(城前公園 俯瞰)
越来グスク(城前公園 入口)
<令和元年10月16日指定 城前町在 管理者:越来共有会、沖縄市>
ギイクグシクと呼ばれた越来グスクは、標高80m前後の石灰岩丘陵上にありました。古老によると頂上は現在より高い場所にあり、東の海が見えたということです。
越来は沖縄島中部の重要な地域でした。のちに琉球国王となる尚泰久、尚宣威が王子時代に領有しており、彼らは越来グスクに住んでいた可能性があります。
発掘調査では、14世紀から15世紀の建物や炉の痕跡、墓、貿易陶磁器や青銅鏡片、石製勾玉等の貴重な資料が多数見つかっています。
また越来グスクは古い歌謡集『おもろさうし』に登場し、歌の中で琉球の創造神と語られる「アマミク」が作ったグスクと称えられています。アマミクが関わったという伝承、そして琉球独自の特徴を持つ聖地として、国指定名勝「アマミクヌムイ」に追加指定されました。
越来グスクのあった場所は開発により丘陵が失われ住宅地や公園になっていますが、公園内の拝所はグスクがあった過去の記憶を今に伝えています。
【越来グスク調査報告書】
【越来グスクと周辺文化財マップ】
(2024年12月 更新)
三線 平仲知念型銘時受<平成6年3月15日指定 個人所有>
<沖縄の文化財Ⅲ 有形文化財編より画像引用>
三絃匠主取の知念の弟子の平仲によってつくられたといわれる平仲知念型の小型の三線です。
材質はリュウキュウコクタンの最上質材です。棹は細め、鳩胸には丸みがなく天は反りが大きく、中央部が丸みを帯びて、平仲知念型の特徴をよく示しています。
爪裏ノミ型は丸ノミ荒取りで、範は均整がとれた配置になっています。明治後期に作られたものと考えられています。心の表側には「時受」の銘が刻字されています。
沖縄の三線七つの型の中で、平仲知念型を代表する三線のひとつです。
(2024年 12月更新)
泡瀬の京太郎
泡瀬の京太郎 演舞写真
泡瀬の京太郎 演舞写真
<昭和55年3月31日指定 泡瀬京太郎保存会>
(平成17年2月21日 国選択:記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財)
泡瀬の京太郎は、首里から泡瀬村に移住してきた首里の寒水川芝居の役者から手ほどきをうけ、泡瀬の青年らがその芸を習得し、明治三十九年ビジュルの石殿を改築した際にその改築祝の行事として催された村芝居で初めて演じられた芸能です。
泡瀬以外の地域では宜野座村宜野座、石川市伊波、名護市呉我でも、京太郎芸能の一部を伝承しています。宜野座や伊波などの京太郎は、寒川芝居の面影を強く残していると考えられていますが、その一方で泡瀬は京太郎芸そのものを中心に新たに舞台芸として組み立て、洗練されてきたことに特徴があります。
泡瀬の京太郎芸は「敵討」風の舞踊劇で、親の敵を討つために遊芸人である京太郎に身をやつして敵陣深くのり込んでめでたく敵を討つという構成となっており、首里郊外のアンニャ村に住んでいた京太郎集団が演じていたものとは性格が異なります。
今現在「泡瀬の京太郎」の踊りの型の基本となっているのは、自身も泡瀬の京太郎の踊り手であった舞踏家、故・佐久本嗣幸氏の踊った型であると言われています。
(2024年 12月更新)
泡瀬ビジュル(社殿、鳥居、手水鉢)
泡瀬ビジュル 社殿
泡瀬ビジュル 社殿前鳥居
泡瀬ビジュル 手水鉢
泡瀬ビジュル 鳥居
<平成21年3月27日指定 泡瀬在 管理者:泡瀬復興期成会>
泡瀬ビジュルは、泡瀬の初期開拓者である方が海に浮かんでいた霊石を見つけて持ち帰り、その石をご神体としてビジュルとして祀ったのがはじまりといわれています。
泡瀬交差点の南東側にあり、村びとは「ビジュル」や「ビージュル」と呼んでいます。
ビジュル参詣(ビジュルムヌメー)は旧暦5月5日と9月9日に行なわれ、祈願の内容は子安、子育て、旅の安全など様々です。
文化財として指定されているのは昭和13年に改修、建立された社殿と2基の鳥居、手水鉢です。木造の意匠を鉄筋コンクリートで造っており、鉄筋コンクリート造りでは難しい屋根の曲線や円柱、梁、桁、貫、斗、垂木などが丁寧に仕上げられ、当時の建築技術を知るうえで大変貴重な建造物であるといえます。
(2024年 12月更新)
上地のバーキ(與志平朝蒲制作竹細工)
アラバーキ
ミージョーキ
<平成21年3月27日指定 郷土博物館所蔵>
昭和初期の沖縄は冬キャベツの産地であり、その出荷用としてのバーキの需要が急速に増大していきました。沖縄市上地では、それ以前よりバーキを作っていましたが昭和5年に上地副業組合が設立されると、県の講習会などを受け品質の改善や技術の向上を追求していった結果、県内で上地アラバーキとして有名になりました。
沖縄市指定文化財に指定された28点のバーキは與志平朝蒲さんが1953年から1983年頃にかけて製作したものです。アラバーキのほか、ユナバーキ、ミンバーキ、サギジョーキー、カジラーティール、ムチウブサーなどがあります。
與志平さんは10歳の頃からバーキをつくり、17歳の時に副業組合で講習を受け様々な技術を学んで上地のバーキ作りに貢献しました。
これらのバーキは当時の上地におけるバーキ製作技術の変遷を知る上でとても貴重な資料です。
(2024年 12月更新)
ハル石(印部石)
ハル石(印部石)は首里王府による土地調査事業である元文検地(1737~50年、乾隆2~15年)の頃に製作・設置されたと考えられ、当時の沖縄で行われた元文検地の状況を知るうえで貴重な文化財です。かつては多くの基準点となる石が各地に存在していたようです。
印部石 ミ 赤ひら原
印部石 ミ 発見
<平成28年3月2日指定 郷土博物館所蔵>
正面に「ミ 赤ひら原」と刻字されています。「赤ひら原」の小字は、越来では現在のところ確認されていません。
字越来、小字越来原の教会敷地で発見されましたが、保管先が定まらず転々としたのち、1983年に発見者により郷土博物館へ寄贈されました。
石材は砂粒砂岩(ニービヌフニ)です。
(2024年 12月更新)
印部石 ア 木の下原
印部石 ア 発見
<平成28年3月2日指定 郷土博物館所蔵>
正面に「ア きの下原」と刻字されています。「きの下原」は越来の小字です。
字越来、小字越来原の屋敷の石垣の材料として使われていましたが、石垣を取り壊した際に発見され、1983年に発見者により郷土博物館へ寄贈されました。
石材は砂粒砂岩(ニービヌフニ)です。
(2024年 12月更新)
<平成28年3月2日指定 美里在 管理者:美里自治会>
正面に「さ さく原」と刻字されています。「さく原」の小字は、美里では現在のところ確認されていません。しかし、泉作原という小字は確認されています。
字美里、小字西原の宅地造成の際に発見され、発見場所付近の里道上に移設されました。現在の美里に残っているのはこの印部石だけです。
石材は砂粒砂岩(ニービヌフニ)です。
(2024年 12月更新)
美里の龕
<平成6年9月22日指定 郷土博物館所蔵>
遺体を納めた棺を墓まで担いで運ぶ葬具を「龕」(がん)といいます。
イヌマキ(チャーギ)という材木でできており、屋根や柱や戸は組み立て式です。柱と戸は2種類あります。朱塗りで屋根は入母屋造り、てっぺんの両端にはシャチホコが飾られ四面の壁板には蓮の絵が描かれています。
昭和23年に製作を依頼し、昭和37年ごろまで使用されていましたが、火葬が主流となった現在では使用されることがなくなり博物館へ寄贈されました。
この龕が美里の共同体の中で重要なものであることは、龕仕立のことが「美里区日誌」に記述が残っているように、戦後の物資が少ない中でいち早く龕を作ったことからも伺えます。
(2024年 12月更新)
知花花織
知花花織(ちばなはなうい)は、知花地域を中心として織られていた経浮花織、縫取花織などの技法を含めた総称です。特に知花地域などでつくられたとされる織物は、経浮技法が顕著にみられます。
この織り方は、製織を継承している他の地域には見られない技法であり、知花地区でその例が多く残されています。そのため、知花花織を後世に継承していく復元作業の取り組みが現在沖縄市では行われています。
指定名称:木綿紺地経緯絣花織衣裳(もめんこんじたてよこかすりはなういいしょう)
知花花織 馬乗上着 前
知花花織 馬乗上着 後
呼称:知花花織 馬乗上着<平成12年12月6日指定 郷土博物館所蔵>
馬乗上着は知花弁当馬場(びんとぅばば)で昔行われていたウマハラシー(馬乗り競争)の際に、馬乗袴とセットで着用した晴れ着です。19世紀中期の製織と推定されます。
この染織物の大きな特徴は5種類の異なった布を継ぎ接ぎし一着の花織衣装として縫製されていることです。複数の織物が同一の染織物に存在するということは、織技法の豊富な製織者がその数だけ違ったデザインを考えて制作作業を行ったということが考えられます。
この様式の衣裳はほとんど類例がなく、貴重な資料として沖縄市立郷土博物館に収蔵されています。
(2024年 12月更新)
指定名称:木綿紺地経浮花織衣裳(もめんこんじたてうきはなういいしょう)
知花花織 馬乗袴 前
知花花織 馬乗袴 後
呼称:知花花織 馬乗袴<平成12年12月6日指定 郷土博物館所蔵>
馬乗袴は知花弁当馬場(びんとぅばば)で昔行われていたウマハラシー(馬乗り競争)の際に着用した晴れ着です。19世紀中期の製織と推定されます。
この染織物は3枚の布が袴衣裳として縫製されており、あまり類例がなく貴重な資料となっています。
袴に付随している2種類の細帯も特徴的なもので、帯の房から製織当時の織機の構造が推定でき、可能性としては腰機(こしばた:原始機)のようなものを用いたのではないかと考えられています。
(2024年 12月更新)
指定名称:木綿芭蕉紺地経絣縫取花織衣裳(もめんばしょうこんじたてかすりぬいとりはなういいしょう)
知花花織 ウッチャキ 腹
知花花織 ウッチャキ 背
呼称:知花花織 ウッチャキ<平成12年12月6日指定 知花在 個人所有>
ウッチャキはエイサーやスーマチ棒などの民俗芸能等で着用した晴れ着です。
このウッチャキは着用していた方が製織者で、19世紀後期(1898年~1899年)の頃に製作されたものです。
この染織物には各種繊維素材(木綿・芭蕉・ウール)が使用されていて、繊維素材の伸縮性を考慮して製織されていて、当時では珍しくあまり類例がなく貴重な衣裳です。
文様は経絣と縫取織技法組み合わせた幾何学的な模様構成になっています。
(2024年 12月更新)
池原の十五夜行事
池原の十五夜行事
池原の十五夜行事
<平成21年3月27日指定 主催者:池原自治会>
池原の十五夜行事は、旧暦8月15日に行われる村落祭祀です。祈願は神屋・神アサギ・イーヌアシビナーの3ヶ所で当日の午後行われます。道ジュネーは神屋で祈願のあと、臼太鼓の奉納があり、旗頭・獅子・臼太鼓・エイサーの隊列で行われます。日中は祈願と道ジュネーがあり、夕方からはシチャヌアシビナーで村芝居が行われます。
字池原の十五夜行事は獅子による村清め、カリーな踊りと認識されている臼太鼓、それに奉納舞踊とが組み合わさって行われています。また、十五夜行事の目的の豊作祈願祭とあわせて昭和8年からは敬老会も併せて行うのが慣例となっています。
池原の十五夜行事は沖縄の伝統的な祭祀行事を知る上でとても貴重な民俗文化財です。
(2024年 12月更新)
上之殿毛(イーヌトゥンモー)
上之殿毛 引き
上之殿毛 寄り
<平成21年3月27日指定 知花在 管理者:松本自治会>
知花グスク跡のふもとにあり、字知花のカンサヂヤーの南西側に位置しています。この広場には石製の火の神の祠があり、石質は琉球石灰岩で室内には3個の石が安置されています。
現在、この祭場では5月ウマチーと6月ウマチーが知花・松本村落の共同祭祀として行われています。知花のカンサヂヤーでは知花村が主体となり、上之殿毛では松本村が主体となって執り行われています。
松本村では現在、5月ウマチーでは豊作祈願と村の安全繁栄、6月ウマチーでは豊作感謝と村の安全と繁栄を祈願しています。ウマチーではウムイも歌われます。
上之殿毛は火の神の小祠、また祭場としての空間が松本村の村落移転や沖縄の祭場としての変遷などを知る上で大変貴重です。
(2024年 12月更新)
古謝のビジュル
<平成21年3月27日指定 古謝在 管理者:古謝自治会>
大きなアコウの木の下に祠(ほこら)があり、俗に「ビージュル」や「ビジュル」と呼ばれています。
ビジュルの石は、ある村びとが海からひろってきたと伝えられていますが、それを祀った年代ははっきりとはわかりません。
祠の石質は有孔虫石灰岩(粟石)です。屋根は方形で、宝珠が取り付けられています。祠の中には5個の霊石があり、その中の1個は他の霊石よりも大きいことから創建時の霊石ではないかと考えられています。現在、霊石は大小関係なくすべてビジュルとされており、一括して祈願対象となっています。
自治会の主催で村の有志たちは、旧暦の1日と15日に字の無病息災の祈願を行っています。また、旧暦9月9日には家庭祭祀としての祈願も行っており、特に子供の健康祈願が行われています。定例の祭祀とは別に妊娠祈願も行われ、産後の感謝祈願も行われます。古謝集落以外からも参拝者が訪れます。
(2024年 12月更新)
諸見里の旗スガシー
諸見里の旗スガシ―
諸見里の旗スガシ―
<平成21年3月27日指定 主催者:諸見里自治会>
諸見里の旗スガシーは、戦前から引き継がれている諸見里の伝統行事です。
毎年旧暦7月16日に自治会長ほか有志などによって五穀豊穣、集落の繁栄と無病息災を祈願し、道ジュネーを行う行事です。旗頭を先頭に集落内を練り歩き、最後に自治会の広場でエイサーや獅子舞などが披露されます。かつては16日に旗スガシー、18日に獅子舞が行われていましたが、1916年頃からまとめて16日に行うようになったといわれています。
(2024年 12月更新)
諸見里の村旗
諸見里の村旗 全体
諸見里の村旗 模様
<平成21年3月27日指定 郷土博物館所蔵>
諸見里の村旗は、旧暦の7月16日に行われる旗スガシーの際に使用されていました。安政年間(1854~1860年)に、当時の越来間切諸見里村の地頭が製作したものと伝えられています。
長さ約3m、幅1mで中央に2匹の虎がのびのびと描かれおり、その上部には諸見里村と書かれています。周囲の布は大正時代に縫い付けられたもので、下部には当時の諸見里の人が書いた青年團の文字があります。諸見里における伝統行事の変遷を知る上で貴重な資料です。
年月を重ねるにつれほころびはじめ昭和54年に作り替えられることになりました。
二代目の旗が作成されて以降は自治会事務所で大切に保管され、1990年に諸見里郷友会から沖縄市立郷土博物館へ寄贈されました。
(2024年 12月更新)
鬼大城の墓(うにうふぐしくのはか)
<昭和55年10月23日指定 知花在 管理者:個人所有>
大城賢勇は大柄で武勇にすぐれ、俗に鬼大城と呼ばれています。1458年、首里王府軍の総大将として勝連按司の阿麻和利を討伐し、その功績で越来間切の総地頭に任ぜられました。その後の政変で第一尚氏王統は滅び、鬼大城も知花グスクに追われ自害したと伝えられています。
鬼大城の墓は知花グスクの南側の丘陵地に位置しており、「岩穴囲い込み墓」(名嘉真宜勝分類)で岩陰を利用してつくられています。
お墓の内部には、石棺が10個、大小のカメ型厨子が23個あり、銘が判読できるもののうち最も古いと思われるのは石灰岩製寄棟式厨子で、嘉清36年(1557年)という文字がありました。また、銘のない石棺も多く、どの石棺が鬼大城のものかは断言できません。ですが、一部が欠けた石棺のふたと身に大きく墨書きで元祖と銘されたものが確認されています。
(2024年 12月更新)
カフンジャー橋
<昭和55年10月31日指定 美里在 管理者:沖縄市>
沖縄県立美咲特別支援学校の国道330号沿いに位置するカフンジャー橋は、明治末期から大正の初期にかけて造られました。橋の移り変わりを知る上で大変に貴重な建造物です。この橋にまつわる口碑も残っています。
比謝川上流の支流〈カフンジャー川〉に架けられた半円形のアーチ式石橋で、材料は琉球石灰岩が用いられています。橋台は基礎部分とアーチを構成する石の石積み立ち上がりを据え付ける部分に区分されます。アーチを構成する石は、両立面とも「かなめ石」を中心に左右対称それぞれ9個ずつ配置され、合計18個で構築されています。
(2024年 12月更新)
セークガー
セークガー全景
セークガー湧き出し口
<平成6年9月22日指定 美里在 管理者:美里自治会>
セークガーは美里公民館の南側に位置している井戸(カー)です。
ヒージャーガーとともに美里集落の発祥にかかわる井泉だといわれていますが、建造年代は不明です。
聞き取り調査によると、明治29年生まれの話者が幼少の頃には既にあったそうです。なので、100年以上も前から存在していると推定されます。むらの井戸として大切にされてきましたが、水道の普及とともに使用されなくなりました。また、ウマチー行事の拝所としても重要です。
井戸の造りは、湧口、堰、溜め池、水汲場、洗場、溝、階段で構成されています。
湧口は石灰岩層からの湧水で、堰は堅固な石積みです。堰は湧水を水汲場と隔てて水位と水質を保っており、ふたつの取水溝と四角の形をしたのぞく穴があります。
戦後に改修された記録はなく、往年の技法を伝える重要な文化財です。
(2024年 12月更新)
ヒージャーガー
ヒージャーガー全景
ヒージャーガー湧き出し口
<平成6年9月22日指定 美里在 管理者:美里自治会>
この井戸は東アタトウヤマと西アタトウヤマの間にあって、美里公民館の北東側に位置しています。村ではヒージャームンチュウ(ヒージャー門中)が使用した井戸と言われており、現在の井戸は昭和29年に改修されたようです。
井戸(カー)の構造は湧口、堰、溜め池、水汲場、洗場、溝、階段で構成されています。
セークガーと同様、聞き取り調査によると明治29年生まれの話者が幼少の頃には既にあったそうです。なので、100年以上も前から存在していると推定されます。この泉から流れ込んで小川やむかいの溜め池の底に溜まった土は農家の肥料として利用されたと言われています。
むらの井戸として大切にされてきましたが、水道の普及とともに使用されなくなりました。また、ウマチー行事の拝所としても重要です。
(2024年 12月更新)
奉安殿
奉安殿 背面
奉安殿 菊文近景
弾痕 引き
弾痕 正面部分寄り
<平成9年2月5日指定 知花在 管理者:沖縄市>
美里児童園の隣接地に位置し、戦前の美里尋常高等小学校の敷地内にあたります。この奉安殿が建てられた時期は、1935(昭和10)年前後と推定されます。
奉安殿は天皇・皇后の御真影(写真)を保管し奉る建物であり、火事や水害などの緊急の場合に職員は命がけで御真影を守るのが義務とされていました。戦時中は、戦火から御真影を守るために命を失った校長先生もいました。
戦後はアメリカ軍のキャンプヘーグの用地として奉安殿も基地内へ接収されましたが、昭和50(1975)年に返還されました。
北西向きで、建築様式はギリシャ建築のコリントオーダーに似ています。
現在の沖縄県において残っている奉安殿は3~4か所だけで、それだけに、戦争遺跡として貴重な建造物になっています。
(2024年 12月更新)
忠魂碑
忠魂碑 背面
忠魂碑刻字 寄り
忠魂碑 軍の意匠
忠魂碑を囲む玉垣と鎖
<平成9年2月5日指定 知花在 管理者:沖縄市>
美里児童園の隣接地に位置し、戦前の美里尋常高等小学校の敷地内にあたります。1937(昭和12)年に竣工しました。
忠魂碑は国の為に戦争で犠牲となった兵士の魂を供養する意味で全国各地の学校や役場の敷地内に建てられました。戦前の軍国主義思想のシンボルとしての役割を果たし、戦争の犠牲者が相次ぐ中で全国各地に建立されていきました。
沖縄市の忠魂碑はコンクリートで造られており、砲弾の形をしています。碑正面に文字が2か所あり、中央部分に「忠魂碑」その脇には「陸軍大将井上幾太郎書」と筆耕者名が刻まれています。
県内において奉安殿と共に保存されている事例は沖縄市だけなので、平和を考えるうえでもきわめて重要な文化財であるといえます。
(2024年 12月更新)
室川貝塚
歴史公園(室川貝塚)
室川貝塚 発掘前
室川貝塚 発掘作業風景
<平成9年2月5日指定 仲宗根町在 管理者:沖縄市>
室川貝塚の近隣には仲宗根貝塚および馬上原遺跡が立地しています。
それらの遺跡が立地している石灰岩台地は、北側で落差10mの崖となり、先は緩やかな斜面となっています。その緩斜面に室川貝塚が立地し、標高は100m前後です。
1974年に発見されて以来、沖縄国際大学により5次にわたる発掘調査が行われ、沖縄の先史時代の解明に大きな成果をもたらしました。
主な調査成果として次のことがあげられます。
当時としては最古であった室川下層式土器が出土したこと、室川・室川上層式の設定、伊波・荻道式土器の前後関係が判明したこと、石鏃の所属年代がはっきりしたことなどです。蝶形骨製品も多数出土しています。
1989年より、沖縄市役所庁舎の建設に伴い貝塚の取り扱いについて調整・協議が行われ、沖縄国際大学が調査した地点を保存し、その周囲を記録保存調査することになりました。室川貝塚のように、ひとつの遺跡に関して何度も調査が行われてきた事例は県内でもあまり類例がないことだと思われます。
歴史公園として整備された室川貝塚は、現在、市指定文化財に指定されています。
なお、室川貝塚・仲宗根貝塚・馬上原遺跡は、その所属年代や遺物内容などから、広範囲に展開したひとつの遺跡であると考えられています。
(2024年 12月更新)
室川井
室川井 全景
室川井
室川井 湧き出し口
胡屋・仲宗根向上會 刻字
<平成9年2月5日指定 胡屋在 管理者:胡屋きょうゆう会>
沖縄市役所の北東側に位置しており、大かんばつに見舞われても水が枯れなかったと言われ、村びとは「ムルカーガー」と呼んでいます。
湧水を守る石積みについては、残念ながら建造年代はわかっていません。この湧水からそれほど離れていない室川貝塚の古代人たちもここを貴重な水源として頻繁に利用していた可能性もあります。
村井戸(カー)として、特に終戦直後は大切にされ胡屋や仲宗根だけでなく、室川の人たちも生活用水や農業用水として利用していました。水道施設の整備が進むにつれて使用されなくなりましたが、拝所や石造文化財としてとても貴重です。
現在の井泉は、昭和3年に改修されました。村では、旧暦8月10日に拝んでいます。
(2024年 12月更新)
登川碑
登川碑
登川碑 全体
<平成21年3月27日指定 登川在 管理者:登川自治会>
登川公民館の近くに位置しています。石碑の表側には乾隆4(1739)年に登川村が池原村から分離して現在地に移転し、事業にかかわった人々の屋号と名前が記されています。裏側には昭和13(1938)年に記された「登川ノ創立沿革」が刻まれています。
この碑によれば、登川は池原から7世帯が元島(現在の北美小学校付近)の地へ移動し、その後さらに池原から7世帯を加えて現在の登川に移動して発展するようになったとあります。
登川碑の石質は細粒砂岩(ニービヌフニ)で、地元ではイシガントウとも呼ばれています。
18世紀から19世紀にかけて盛んに行われていた集落移動を知る上で貴重な資料です。
(2024年 12月更新)
古謝のビジュルにあるアコウ
<平成21年3月27日指定 古謝在 管理者:古謝自治会>
和名はアコウ、分類はクワ科、方言名ではウスク・アコーと呼ばれています。
古謝のビジュルにあるアコウ(ウスク)は『古謝誌』によると、ビジュルを安置した頃にはあったといわれ、樹齢100齢以上と推定されます。
樹高約13メートル、胸高幹周7メートル、枝張の長さは東西約21メートル、露出した根張の長さは東西約13メートルもあり、樹形もよく、古木として貴重です。
昔、古謝に大きな津波があった時には丘の上からアコウの木の葉だけが見えたという話も残っています。
(2024年 12月更新)
<平成23年7月25日登録 胡屋在 管理者:沖縄市>
1924年沖縄市室川に建てられた伝統的な赤瓦屋根の沖縄民家です。
所有していた方から昭和60年(1985年)度に沖縄市へ寄贈していただき沖縄こどもの国へ移築しました。
<平成23年7月25日登録 胡屋在 管理者:沖縄市>
屋敷の正面の門と母屋のあいだに石垣で設けられている石壁で、目隠しと悪霊を防ぐ信仰上の役割を兼ねていると言われています。
ヒンプンの呼称は中国(北言語)の屛風(仕切壁・囲い障子・屛風などを意味する)に由来するといわれています。
所有していた方から昭和60年(1985年)度に沖縄市へ寄贈していただき沖縄こどもの国へ移築しました。
母屋とセットで復元し、石材は港川石を使用しています。
(2024年 12月更新)
<平成23年7月25日登録 胡屋在 管理者:沖縄市>
フールヤーと呼ばれ、豚の飼育と厠を兼用していました。
1927年頃に作られた石造りの建物で、豚を飼育する部分武お半分はアーチ構造の天井を被せています。
ふるさと園のものには屋根が造られていませんが、屋根付きのフールヤーも場所によってはあります。
昭和58(1987)年度に沖縄市に寄贈され、3年後の昭和61(1986)年度に調査と移築が行われました。
(2024年 12月更新)
美里村屋 外観
美里村屋 内観
<平成26年4月25日登録 美里在 管理者:美里自治会>
イヌマキ(チャーギ)を材料にした木造平屋・入母屋造瓦葺きという構造で、昭和29(1954)年に美里地区の公民館として建設されました。
屋根の入母屋造りは県内では珍しく、沖縄建築技術の変遷の歴史的特徴も合わせ持っている建物です。
昭和49(1974)年には屋根を赤瓦からセメント瓦に葺き替え、その後も地域住民の丁寧な改修が施されてきました。
その結果、沖縄の歴史的景観に寄与している貴重な建築物として評価され、美里村屋(ンザトゥムラヤー)は国の登録有形文化財となりました。
(2024年 12月更新)
オカヤドカリ
オカヤドカリ
ムラサキオカヤドカリ
<昭和45年11月12日指定 所在地、地域を定めず指定>
生活史の大部分を陸上で過ごすヤドカリ類です。日本からは7種の記録があり、すべてが天然記念物に含まれます。そのうち沖縄島ではオカヤドカリ、ナキオカヤドカリ、ムラサキオカヤドカリ、コムラサキオカヤドカリの4種が主に分布しており、沖縄市では県総合運動公園などの海岸沿いでナキオカヤドカリ、北側の森林ではオカヤドカリが観察されます。
大きくなってからは陸上で生活をしますが、幼生期は他のヤドカリ類と同様に海中でプランクトンとして生活します。そのため、受精卵を腹部に抱えたメス親は、卵の中で幼生が十分発達するころ、海に行く必要があります。波打ち際に降りて海水に浸り、宿貝を前後に激しく揺すると、海水に触れた卵がはじけ、幼生が海中へ放出されます。これを「放幼生」と言い、一年間でもっとも干満の差が大きい夏の夜の大潮に集中して行われます。幼生はプランクトン生活をしながら脱皮・成長し、稚ヤドカリとなって浜辺から陸上にあがると殻を背負うようになります。
このように一生のなかで海と陸を行き来しなければならないので、オカヤドカリ類が安定してくらしていくためには、海岸から森林までの連続的なつながりが重要ですが、沖縄島では海沿いに護岸や道路が敷かれている場合が多く、オカヤドカリ類の障壁となっています。
(2024年 12月更新)
カラスバト
カラスバト(沖縄こどもの国撮影)
<昭和46年5月19日指定 所在地、地域を定めず指定>
全体的に黒色をした、日本のハト類の中で一番大型の種類で、全長は約40cmになります。
日本では東京都の伊豆諸島・千葉県から紀伊半島までの本州太平洋岸の海岸部、九州から沖縄諸島の島々に分布しています。沖縄市では北側の森林に分布が限られます。
森林に生息しますが、他のハトと違い警戒心が強く、人目に付くことはほとんどありません。
9月頃になると「ウッウッウー」とか「グルルー、グルルー」という特徴のある鳴き声を聞くようになり、その声から、沖縄島では「ウシボートゥ(牛ハト)」と呼ばれることが多いです。
(2024年 12月更新)
フタオチョウ
<昭和44年8月26日指定 所在地、地域を定めず指定>
後ろ羽に2本の尾のような突起がある、特徴的なタテハチョウの仲間です。
沖縄島の固有種と考えられてきましたが、最近奄美大島や徳之島からも記録されました。
オスは見晴らしのいい木の上で縄張り行動をとります。
幼虫は元来ヤエヤマネコノチチを食草とし、ヤエヤマネコノチチの分布が沖縄島の北部までに限られていたため、フタオチョウの分布も北部に限られていましたが、1980年代ごろから中南部にもよく生えているクワノハエノキを食べる系統が出現し、島のほぼ全域に分布するチョウになりました。
現在では沖縄市でも公園などに大きなクワノハエノキがあると、よく見かけます。
類縁関係の近い種類がヒマラヤから東南アジア、台湾まで分布しており、かつて琉球列島がユーラシア大陸の一部だった時に広く分布し、次第に琉球列島が海で隔てられ、沖縄島に取り残される形で分布するようになった生き物だと考えられています。
(2024年 12月更新)
コノハチョウ
<昭和44年8月26日指定 所在地、地域を定めず指定>
羽を閉じると枯れ葉そっくりなことで有名なチョウですが、羽を開いて表面が見えると、オレンジと青の美しい模様が見られます。
インドから東南アジア、中国、台湾そして琉球列島徳之島以南と広く分布しており、いくつかの亜種に分けられています。
成虫は樹液や腐った果実を好んで吸汁します。
幼虫はスズムシソウの仲間を食草とし、沖縄島内での分布は食草の分布と重なります。
沖縄市では山の谷沿いに生えるオキナワスズムシソウを利用していると考えられ、北側の森林で少数が確認されています。
(2024年 12月更新)
イボイモリ
<昭和53年11月9日指定 所在地、地域を定めず指定>
主に山間部の沢でくらすイモリの仲間です。生体の胴の左右には、肋骨の先端部に由来する、イボのような突起があります。
沖縄島・渡嘉敷島の固有種で、徳之島・奄美群島には別種のアマミイボイモリが分布し、鹿児島県の天然記念物に指定されています。沖縄市内での分布は北側の森林域に限られます。
3~6月頃を繁殖期とし、成体は12月ごろから産卵場所である沢の周辺に集まってきます。
産卵は沢の近くの落ち葉の下などに行われ、梅雨時期に孵化し、幼生はジャンプしながら沢へたどり着き、水中生活を開始します。上陸以降の生活史は不明な部分が多く、繁殖期以外には成体もほとんど見つかりません。
イボイモリの仲間は中国から東南アジアにかけて飛び地的に生息しており、先祖はユーラシア大陸東部に広く生息していたと考えられます。
琉球列島が大陸の一部であったころから生息し、次第に琉球列島が海で隔てられ、沖縄・奄美に取り残される形で分布するようになった生き物の一つです。
(2024年 12月更新)
クロイワトカゲモドキ
<昭和53年11月9日指定 所在地、地域を定めず指定>
古い特徴を残すヤモリの仲間で、他のヤモリのように垂直な壁などには登らず、地上で生活しています。
クロイワトカゲモドキは沖縄島中南部・伊江島・屋我地島・瀬底島の固有種で、沖縄島北部と古宇利島には2023年に新種記載されたヤンバルトカゲモドキが、その他徳之島から慶良間諸島にかけて各島の固有種として5種が分布し、すべて天然記念物に指定されています。
夜行性で、昼間は岩の割れ目や洞穴の中などにかくれています。夜になると隠れ家から出てきて、昆虫などを捕食します。繁殖期は4~8月で、その間にメスは2個の卵を2回以上産みます。
イボイモリ同様、古い時代に広く分布していた生き物の生き残りで、その後各島でそれぞれの固有種に進化しました。琉球列島の成り立ちや生き物の進化を考えるうえでも重要な生き物です。
開発や外来生物の影響などで生息地が激減しており、沖縄市で現在も見ることができる場所は限定的です。
(2024年 12月更新)
※地域を定めず指定されている天然記念物のうち、過去沖縄市で確認されているものを記載しています。
令和2年度より、地域を定めず指定されている天然記念物については、件数としてカウントせず、別途紹介しています。
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