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◆ 広報おきなわ(No343)  1月号

年頭のごあいさつ

第1回沖縄市工芸フェア      

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イキイキ通信
「常に楽しく」を合い言葉にサードライフを謳歌
特定非営利活動(NPO)法人沖縄市ハイサイネット

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県内視察研修で首里城をみんなで訪れた
 IT時代を迎え、インターネットやメールを使って、あらゆる情報の収集ややりとりがリアルタイムで行われ、暮らし中の様々な場面にパソコンが活用されている。そんな中、定年退職を迎えたシニア達がパソコンを通して第三の人生を楽しみながら、シニアが持つ豊富な知識と経験を生かし、社会へ貢献したいと活動を始めた。
 「第三の人生、サードライフを謳歌しよう」という呼びかけで平成12年7月に沖縄市ハイサイネット(山本厚理事長)が設立された。県内唯一のシニアネットクラブであり、沖縄市と仙台市のシニアネット関係者がテレビ会議システムを利用して交流する電脳七夕まつりや台北市シニアクラブとの交流などその活動は大きな広がりを見せる。
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シニアがシニアをサポートするパソコン講習
 楽しみながらたくさんの仲間をつくり、自分たちのペースで学べたらと、シニア対象のパソコン教室から始まったハイサイネット。これまでに300人余が受講し、4つのクラスでスキルアップを図る。受講するという受け身だけではなく、全国で約600人が資格を持つシニア情報生活アドバイザーにもハイサイネットから34人のアドバイザーが誕生。パソコンやネットワークを利用して高齢者がより楽しく、活動的な生活を送れるようボランティアで積極的に手助けをしている。そういった活動が認められ、平成14年10月には、特定非営利活動(NPO)法人として認証書が交付された。しかし、これだけではなく、まだまだ自分たちにできることがあると、高齢者が直面する介護分野で、インターネットやメールを使って、サービスを受ける当事者や家族が自分たちにあったサービスを選択できる手助けをしたいと考え、シニアITホームヘルパーの取り組みも始めた。11月には沖縄市においてシニアITホームヘルパー研修会の全国大会を開催し、県外で積極的にITを使ってシニアを支援している多くの団体との情報交換も行った。
 「常に楽しく」を合い言葉に生き生きと楽しく、そして社会に貢献できる活動を目指して、ハイサイネットのシニアパワーはますます躍進している。

風のスケッチ
 戦前戦後の泡瀬は、製塩業が盛んで「アーシマース」は県下にその名を轟かせていた。
 泡瀬の製塩業は200年余の歴史を有する。「泡瀬開拓の祖」とされる高江洲義正翁が、1767(乾隆32)年頃に泡瀬へ移住し、同地の開拓のかたわら干潟を利用して製塩を始めたのが泡瀬での製塩業の始まりであると伝えられる。泡瀬干潟は遠浅海岸で引潮の時に現れる浅瀬が塩浜に適しており、その立地条件に目をつけた人々が首里・那覇から移住して製塩業に従事した。1905(明治38八)年の塩専売制度の施行や製塩法の改良により泡瀬浜は塩田面積、竈数、製造高、価格ともに沖縄一の製塩地として成長する。
 1913(大正2)年1月、泡瀬塩製造組合が泡瀬市場で塩業奨励会を開催し、前年4月から12月までに3000斤(1800kg)以上の塩を納付した優秀な製塩業者(17人)に賞品を授与した。
 終戦後、米軍によって泡瀬の人々は故郷と塩田を追われ、家業である製塩業を断念せざるを得なかった。また、戦後続いた台風災害と米軍の道路工事などに伴う大量の砂利・石の採取によって製塩施設は壊滅し、塩田は荒れ放題。荒れ果てた塩田の個人整備が非常に困難であることや機械化による泡瀬製塩業の発展を視野に入れて、製塩会社の設立が図られた。同社の年間生産能力は5000トンに達し、県内需要の70%を供給。需要が増加するにつれ、原塩を台湾から輸入した。
 だが復帰に際し、塩専売制度の適用を受け沖縄の製塩業者は転廃業を余儀なくされた。今では、塩田埋立地の海岸に建つ泡瀬製塩の碑が往事の面影を残すだけとなった。
 (H)


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