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更新日:2022年3月1日
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1945年4月1日に米軍は中部の西海岸より上陸、翌日には東海岸の沖縄市泡瀬まで進攻し本島を南北に分断した。上陸地に近い沖縄市では、2日目に字美里で「集団自決」事件がおこるなど、市内での犠牲者の大半が上陸日から5日までの間に集中しています。ちなみに満州事変(1931年)から太平洋戦争終結(1945年)までの十五年戦争における沖縄市民の戦没者は5,400人余の多数にのぼります。
その反面、4月2日には、米軍の占領下でいち早く収容所生活をスタートした市民もおり、ひとくちに沖縄戦といっても、それぞれに地域性がみられます。また、米軍の管理下におかれた住民は、その多くが宜野座、福山などの北部の難民収容所に送られ、そこで終戦を迎えることになります。
米軍政府管理下で再開した学校(1945年 コザ)
沖縄県公文書館より提供
沖縄市出身者の戦没者に関して、様々な視点からグラフ化したものが以下のものです。
(数値等は今後変動する可能性があります)
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※資料提供 沖縄市総務部市史編集担当
沖縄戦のあった昭和20年に大半の市民が亡くなっていますが、沖縄戦の前の年である昭和19年にも1500名近い沖縄市出身者が亡くなっています。
これには大きく3つの要因があり、1つは昭和19年10月10日の「十・十空襲」、2つめに「対馬丸事件」などの、米軍の攻撃による海上での遭難、そして3つめに移民先の南洋諸島や出征先での戦死などが挙げられます。
昭和20年は沖縄戦が繰り広げられた年です。この年を通してみてみると、4月がもっとも多く、6月、5月と続いています。
4月は米軍が上陸した月であり、上陸地に近い沖縄市では上陸時の艦砲射撃による被害が大きかったことが予想され、5月から6月にかけては、北部や南部に避難していった住民が戦闘に巻き込まれたり、北部の収容所で栄養失調やマラリアなどの病気にかかって命を落とす方が多かったと考えられます。
沖縄市の戦没者の亡くなった場所は市内や本島中部のみならず、本島北部や南部、そして県外や国外へと広い範囲に及んでることがわかります。一方で国外での戦没者も多く、これにより沖縄市が南洋諸島などへの移民輩出地域であったことが分かります。
グラフより、泡瀬での戦没者数が圧倒的に多い事がわかります。これは戦前に泡瀬が中頭地域で最も栄えており、人口の多い場所であったことによるものと思われます。
グラフより、鹿児島県で亡くなった方が圧倒的に多いことが分かります。鹿児島県は知覧飛行場など米軍を迎える重要な軍事基地があったため疎開先になっていません。しかし、「対馬丸」などの疎開船が鹿児島県の海域で米軍の潜水艦によって沈められたため、このような数値になっています。対馬丸事件には美東国民学校(現在の美東小学校)の子どもたちなど多くの沖縄市民が犠牲になっています。
沖縄市では戦前、ハワイや南米、南洋諸島などへたくさんの市民を移民として送りだしました。結果として移民先の戦闘では、多くの沖縄市出身者が犠牲となり、米軍が上陸したサイパンでは692名、フィリピンで300名、テニアンで210名など、沖縄市出身者のすべての戦没者のうち海外で亡くなった方は3割を超えます。
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