今月の人

沖縄こどもの国でゾウの新人飼育員が奮闘

290/平岡 真菜(まな)さん(20)

沖縄こどもの国で4月からゾウの担当飼育員として勤務する平岡真菜さん。今月は、同園のゾウとの向き合い方に魅了され、愛知県から沖縄市へ移り住み働く平岡さんに話を聞いた。

平岡 真菜(まな)さん

 平岡真菜さんは、愛知県出身で、高校卒業後は、動物飼育専攻のある専門学校に進学した。進学して間もなく地元愛知県名古屋市にある東山動植物園で行われた実習で、ゾウと出会い、飼育員からゾウのことを学んでいるうちに、ゾウの強さや優しさに魅せられ、どんどんゾウに興味を持つようになっていった。
 沖縄こどもの国では、ゾウの原産国であるインドやタイに近いゾウの飼育管理をしている。
 平岡さんは「本来、ゾウの雌は群れで生活をしており、その群れの中でリーダーを決めています。そのことにより、群れでエサを食べ、水を飲み、生きていくことができます。沖縄こどもの国では、群れの役割を飼育員が行い、群れのリーダーを務めていることに よってゾウは安心して他の動物の前を通っても怖がらずに落ち着いていられることから、園内散歩やエサあげ体験ができます。私が愛知県から遠く離れた沖縄こどもの国の飼育員を志望したのは、飼育員がゾウとなり、群れとしてゾウと一緒に生活していることや、より野生に近い食べ物、現地に近い飼育管理を行っていること に感銘を受け、ここで学びたい、成長したいと感じたからです」と話す。
 平岡さんが、ゾウの飼育員として働く一日は長い。まず出勤するとすぐゾウ舎に行き、ゾウたちにあいさつをして、平岡さんの声を聞かせる。それは、平岡さんの存在をゾウたちに認識させるためだ。そして、ゾウ舎と広場に蛇などの侵入や異物がないか見回り点検し、ゾウに朝のエサ出しをする。それから、寝小屋の掃除、ゾウと一緒にエサやり体験、お昼ごはんを与え、ゾウの体調を見極めて園内散歩、おやつにお風呂、エサであるがじゅまるの木やアコウの木を園外へ取りに行き、ゾウに与えるなど、一日中平岡さんは動いている。ゾウは非常に賢くて、人間をよく観察しており、順位付けをしてリーダーを決めるようだ。新人である平岡さんは、一日でも早くゾウのリーダーとなるため日々奮闘中だ。
 国内で、より現地に近い飼育管理を日本人が行っている動物園の沖縄こどもの国初女性のゾウの飼育員平岡さんに、目指す飼育員を尋ねると「ゾウが信頼してくれる一人前のゾウ使いになりたいです。動物たちの幸せを第1に考え、動物たちの情報を社会へ発信していきたいので、私を見かけたらどんどん声をかけて欲 しいです」と意欲あふれる答えが返ってきた。

戦後文化シアター 今月のヒストリート

 ヒストリートⅡで、企画展「街を視る②|コザ十字路」を開催中です。
 銀天街の裏には、かつて主に黒人兵が出入りすることから「黒人街」と称された米兵相手の歓楽街がありました。もともと、この街は白人も黒人も出入りしていたのですが、数年後、黒人は集団行動で白人を追い出し、照屋は黒人専用の街になりました。コザ十字路北の城前通りに は白人街が形成されることになります。コザ十字路の黒人と白人に分かれた歓楽街の様子を当時の新聞(1957年1月)は次のように述べています。
 「知花に通ずる13号路線(現、国道329号)はバー街20軒、照屋区が専(もっぱ)ら黒人兵専用で一名黒租界(そかい)と呼ばれているのに対し同一帯は白人兵相手の白租界である」
 このように人種によって、コザ十字路には黒人、白人の歓楽街が存在していたのですが、もし黒人街に白人がまぎれこむと、よってたかって袋叩きにされ、逆でも同様な仕打ちをうけたそうです。その後、城前白人街は、度々黒人が集団で喧嘩を仕掛けてきたので、白人が寄りつかなくなって衰退。黒人街は復帰後もしばらく存続していました。
 「中部一の大衆市場」と称された十字路市場、通りを挟んで白人と黒人に分かれていた米兵相手の歓楽街…。ダイナミックだったコザ十字路の移り変わりをぜひご覧ください。

黒人街の境界
黒人街の境界
中央の道路から左側が黒人街、右側が地元民相手の市場・商店街に分かれていた。照屋1965年
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