今月の人

花き栽培で充実したライフスタイル

286/屋 宜  文さん(57)

沖縄県の小菊の出荷量は、25年連続で全国1位。本市は、小菊を含む花き栽培が盛んな地域である。今回は、その小菊栽培に日々奮闘している屋宜文さんに小菊などの花き栽培や、今後の目標について話を聞いた。

屋 宜 文さん

 長崎県出身の屋宜文さんは、本市出身の男性と結婚し、県外で生活をしていたが、夫と共に帰沖した。沖縄で生活を始めてしばらくして、菊栽培をしている夫の友人から「菊栽培を手伝ってみないか」と誘われたのがきっかけで、菊栽培に携わっていくこととなる。それから3年後、義父が所有する休耕地を利用して、屋宜さん自身で菊栽培を始めた。農家の友人や知人から、色々な協力をしてもらい、子育てと菊栽培を両立させた。
 小菊の栽培工程は、苗床を作り、小菊の苗を発根させた後、畑に移し替え、約4か月間栽培し、収穫、出荷している。小菊の出荷先は、主に県外で、特に正月用と、彼岸用に出荷時期を合わせており、毎年9月から3月が繁忙期だ。この出荷時期に合わせて小菊を育てるため、夜に電球を灯しており、その風景は、秋冬の風物詩となっている。沖縄県は、小菊の出荷量が全国1位(全国出荷量の約4割)となっており、本市の出荷量は、県内でも上位となっている。
 屋宜さんに、小菊栽培で苦労していることについて伺うと「消毒を行う作業と、台風などの災害時に、手塩にかけて育てた小菊が、強風で倒され、出荷できなくなってしまうこと」と話す。
 小菊は、しばしば価格が下がることがあることから、屋宜さんは小菊に代わる他の花き栽培を、沖縄県農業協同組合(JAおきなわ)と共に模索している。花きの種類としては、アスターやトルコキキョウ、ダリア、グラジオラス、カラーで、特にトルコキキョウは、今後の需要を見越して力を入れている。いずれの花も、ビニールハウスで栽培され、小菊より作業工程の負担が少ないことから、安定した生産性と販売価格を保ちながら、生産経費を削減することを目標に、取り組んでいる。
 屋宜さんは、市内で菊栽培を行っている婦人の会「花の会」を立ち上げ、出荷できなかった小菊を使用して、お正月用のフラワーアレンジメントを作り、手頃な価格で販売したり、菊農家で働く女性たちの息抜きの場を設けたりと、みんなで楽しみながら活動をしている。屋宜さんは、農業は自分のライフスタイルに合わせて仕事ができるので、子育てをする女性に向いていると言う。
 屋宜さんに今後の目標を尋ねると「夢はこども達と一緒に、花や野菜を育て、収穫できるようにしたいですね。もっと、こども達が土に触れ、花を生けたり、香りを楽しんだりする機会をつくりたいです」と話してくれた。

戦後文化シアター 今月のヒストリート

 ヒストリートⅡで、企画展「街を視(み)る ―沖縄市一番街と中央パークアベニュー」を開催中です。
 戦前まで純農村であった沖縄市は、戦後の本格的な基地建設にともない、仕事をもとめて県内外から多くの人々が流入してきました。
 戦後、軍用地だった一番街一帯は1954年に開放され、当時の越来村によって商業地区に指定されました。土地の区画整理が始まると、村都市計画課の測量技師に本部町出身者がいたことで、この地域に本部町の人々が多く移住してくるきっかけになりました。因(ちな)みに一番街における経営者の割合は、93年の時点で本部町出身者が43%を占めています。
 74年、沖縄市の誕生を機にゴヤ中央商店街は名称を「沖縄市一番街」へと変更しました。翌75年、一番街は県内で初めてアーケード設置及びカラー舗装(ほそう)と商店街の近代化に取り組みますが、その中心になったのも、発起人10名中7名を占める本部町出身者でした。
 一番街の整備以降、近隣の商店街でもアーケードやカラー舗装が行われ、現在に至る沖縄市の商店街の景観が出来上がりました。

一番街の前身、「ゴヤ中央商店街」の人々 写真提供:一番街事務所
一番街の前身、「ゴヤ中央商店街」の人々
写真提供:一番街事務所
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