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◆ 広報おきなわ(bR70)4月号

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夢は障害者
交流センターの実現
<156>普久原 朝正さん (56)
リハビリのつもりでスポーツジムに通いはじめた。筋力トレーニングに加えて水泳もやりはじめた。右下肢機能障害で現在、身体障害4級。普久原さんは自分の水泳の力をためしたかった。昨年十一月に埼玉県で第四回全国障害者スポーツ大会が開催された。やきもきする気持を押さえて出場。水泳男子二十五メートル背泳ぎで金、二十五メートル平泳ぎで銀メダルを獲得した。今月は普久原さんに現在の活動状況などについて聞いてみた。

全国障害者スポーツ大会初出場、水泳男子二十五メートル背泳ぎで金メダル、平泳ぎでも銀を獲得した。「自分の実力がどれくらいなのかためしたかったんです。そんな時に出場の話があったものですから、二つ返事で引き受けました。うれしいですね」昨年の大会を振り返る。

普久原さんは三歳の時に小児マヒと診断され、はしかで右下肢機能障害となる。しかし、小、中、高、大学と普通学校に通った。「小学生の頃は同級生と一緒に運動できなかったのがくやしかったんですね、それから運動会が一番きらいでした。私はいつも蓄音機係でしたから」。

中学の頃から体力づくりや筋力をつけることを自覚、すすんで運動をしはじめた。「中学の頃は放課後バスケットボール部の部活が始まる前に、先に行って一人で練習をしていましたね。おかげで片足だけは筋力がつきました。あの頃は一メートル四十センチぐらいジャンプしていましたよ」と笑う。走ることが出来ないので入部はできない。一人でひたすら練習をした。高校でも運動は続けた。水泳を始めたのは二十五歳の頃から「全身運動なのでリハビリをかねてという考えです。体を動かすのは大好きなんです」とつけ加える。週三回の水泳とウォーキングを日課としている。三年前に二十七年間つとめた会社を依願退職、しかし、その後すぐに身体障害者県水泳協会立ち上げの話がかかり、理事としての立場に「忙しくなるけど、やりなさいという宿命なんでしょうと思い受けたんです」とニガ笑い。又。二年前に市身障協にも席を置き役員として活動している。引きこもりも少なくない障害者の方々、「それをいかにして表に出すか、いいものを引き出していくかが今後の課題」と話す。座右の銘は「全力投球、決して最後まであきらめない」。「あきらめたら負けです」と云い、夢は障害者も高齢者も使える施設「障害者交流センターの設立です」と行政へ呼びかける。

障害者の方々がもっと表に出れるまちづくりを、障害をバネにもっとステップできるまちづくりを。熱っぽく語る普久原さん。鍛えられた体に、しんの強さをうかがわせる眼光がきらりと光る。又、フルマラソンも挑戦してみたいと、さらに目を輝かせる。夢の実現に向かい普久原さんは走る。
戦後文化シアター
ワーナーさんの写真館
キャンプ嘉間良の全景
昨年からお届けしている「ワーナーさんの写真館」も今回でいよいよ最後となりました。

さて、写真はわがまちの戦後の出発点ともいうべきキャンプ嘉間良の全景です。米軍は沖縄攻略の後、九州上陸を目指し中南部をすべて飛行場化する作戦を立てていました。そのため、米軍に捕らわれた中南部の人々は大半が北部へ移され、そこには彼らを収容するため多くの難民収容所が設けられていました。一部、知念地区を除けばキャンプ(収容所)嘉間良が南限ということになります。そこでは米軍の管理下とはいえ、村長、助役が選ばれ、あるいは市制が布かれる等、確かな戦後への歩みがありました。その沖縄の戦後復興に尽力した海軍軍政府の一員がワーナー氏だったわけです。市では、一昨年の五月十五日に感謝の意も込め、ワーナー氏をアメリカからお招きし、講演会を開催しました。その講演録と、彼から提供いただいた多くの写真をこのコーナで紹介した分も含め写真集を発刊いたします。お楽しみにお待ち下さい。
写真について情報をお持ちの方はご一報下さい!
連絡先:総務課・市史編集担当
電 話:939−1212(内線2273)
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