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◆ 広報おきなわ(No347)  5月号

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竹細工を広く子どもたちに
伝えていきたい
<133> 津嘉山 寛喜 さん(52)
 このほど、沖縄市から県工芸認定士として二人の方が認められた。その一人が津嘉山さんである、県工芸認定士は工芸品に従事する者で高度の伝統的技術や技法を持っている方を県が認定し、社会的評価を高め、県内の工芸産業の振興を図ることを目的としている。津嘉山さんは幼少の頃から父に師事し、竹細工の技術を学んだ。今月は竹細工職人津嘉山さんに竹細工にかける思いなどを聞いてみた。

 現在、竹細工職人として生計を立てているのは県内でも津嘉山さん一人ではないだろうか。それほど少ない職業である。
 津嘉山さんと竹細工との出会いを聞いてみた。
「実は自分は三代目なんです。父も祖父も竹細工の職人でした。幼少の頃から父親の仕事を手伝っていたんです。小学校五、六年生の頃には、けっこううまくなり、アルバイト代として5セントをもらっていたんです」と笑う。当時は竹細工の本場、北谷町に製作所があり、小学生の頃は山内や諸見里の山へ竹を取りによく行っていたという。それから、中学・高校の時も手伝いは続き「ほめられるごとに腕をあげていったんです」と振り返る。やがて琉球竹細工の技術を伝授され、約十七年間の修行を経て独立する。平成元年に入門した父親の工房から独立、同じく北谷町に工房を構えた。そして平成九年に八重島に移転、現在は八重島の工房で竹細工作りに専念している。
 津嘉山さんが県工芸士と認められた課題作品は「バーキ」。沖縄の伝統的な竹細工であるバーキの編み方の基本をきっちり学び継承している本人は「ティールやミージョーキ、ウーバーラー、サギジョーキなど沖縄の竹細工の技術はいやというほどたたき込まれましたよ。しかし、今は花器や菓子籠、舞踊の小道具などの注文が多く、なかなか自分の作品はつくる時間がないんですよ」とニガ笑い。竹細工の腕前としては、平成五年に沖縄で行われた全国植物祭で皇后が使用した「お手植えの苒木入れ籠」を製作。翌年には伊是名村の神殿「ニカヤの田の阿母」が乗る「ミアンダ籠」を製作した実績から、いうまでもないだろう。竹細工については「不器用、器用の個人差はあるが努力が九〇%と思っている。自分も道半ばでまだまだだが、こういう仕事は忍耐が大切、なまけようと思えばそれも勝手だし、自分との闘いなんです」と悟す。
 本人の信条である、「わんがさんねーたーがすが」という責任感、使命感がそうさせるのだろう。今後は沖縄の伝統である竹細工を広く子供達に伝えていきたい。「子供達の体験学習の場をもっと増やしてほしいですね」と行政に注文も。「定みたる年に志立てて思い残すな我が身定み」工房にあった本人の琉歌を記して閉じる。


若夏の風
 若夏の季節である。昭和四十八年五月の「若夏国体」で、若夏の古語が沖縄の初夏を象徴する新しい響きをもってよみがえった。
 若夏の風に ゆれゆれてイジュの花
   踊るがごとく 咲ける山道
(瑞慶村悦子 沖縄市 沖縄タイムスより)
 『若夏国体と名付けたこの復帰記念特別国体は、強く明るく新しくをスローガンに新生沖縄県の誕生を記念し、その限りない発展と平和を願って開催されます』(屋良朝苗県知事開会宣言)。当時のコザ市が、一般男子軟式野球、高校女子ハンドボール、高校男子サッカーの三種目の競技会場となってから、はや三十年が経過した。
 戦前は、旧三月を「ムムサングァチ」といい山内のメーヌハル(山内区画整理一帯)や諸見里のウマナーグァー(馬場跡=コザ運動公園一帯)では、山ももを収穫する村人や見物をする人たちで大いに賑わったという。収穫した山ももを買い取り首里、那覇へ運んで小売りする、大山あたりの娘たちをムムウイアングァー(もも売り娘)と呼んだ。山内自治会では山ももの産地として知られた郷土の歴史を後世に伝えようと、昨年七月、収穫に沸き立つ様子を歌った「山ももの歌」の歌碑を建立した。
 山内てるしまや 山もものさかて
   大山あんぐあたが 仕入れどころ
(青山洋二)
 倉敷ダム周辺に、純白で清楚なイジュの花が咲き始める頃、スーマンボース(小満芒種、方言で梅雨のこと)がやってくる。


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