更新日:2025年7月23日
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沖縄市では、地域の発展に貢献し、その功績が顕著で市民から深く尊敬される方に対して、沖縄市名誉市民の称号を贈りその栄誉を称えています。最初の名誉市民として2014年、市制施行40周年の記念の年に4名の方が顕彰され、東京オリンピックが開催された2021年に1名が顕彰され、5名になりました。
沖縄市発展の基礎を築く
1901(明治34)年12月25日-1999(平成11)年11月24日
旧越来村山里生まれ
県立農学校、県師範学校卒。戦前は、本島北部の小学校で教師を務めたほか、越来青年学校の校長も務めました。終戦直後、避難民であふれる「胡差市」の室川小学校校長に就任し、戦後教育のスタートに尽力。その後、沖縄社会大衆党の結成に参画し、1954年には立法院議員に当選して政治の世界へ。1958年、コザ市長に当選。米軍政権下の基地の街の首長として、米国施政権下の市政を運営し、美里村とコザ市が合併して沖縄市が誕生した1974年までその重職にありました。この間、米軍のオフリミッツ問題、全国的なうねりとなった祖国復帰運動、コザ暴動などと、揺れ続ける社会の中で米軍と市民との間に立ち「基地依存経済からの脱却」を訴え続けました。1992年、沖縄市の発展、地方自治、福祉活動に尽くした功績で琉球新報賞が贈られた他、1997年には米兵による少女乱暴事件を機に『沖縄独立宣言』を出版し、注目を集めました。
沖縄市誕生に多大な貢献
1914(大正3)年2月1日-2009(平成21)年9月11日
旧美里村知花生まれ
美里尋常高等小学校、県立農林学校を経て美里村役場に勤務。1932年から20年間にわたり、地域農業の振興と技術改善、指導に尽力され、1954年には美里村助役に就任、1959年からの7年間は中頭巡回裁判所書記官を務めました。1966年に美里村長に当選し2期8年間、泡瀬内海埋立跡の都市計画事業の実施、美里地区土地区画整理事業計画の推進など、美里村の都市環境基盤整備や経済振興に貢献しました。中でも1971年に2回にわたって実施された米軍による毒ガス移送計画問題では、村民の生命財産を守る立場から、当時の屋良行政主席をはじめ米軍、県首脳とともに平和的問題解決に尽力。コザ市と美里村の合併では、懇談会などを開催し村民の合意づくりに力を注ぎ、1974年の沖縄市誕生に果たした業績は高く評価されています。その後、市民文化財調査審議会委員や市国民健康保険運営協議会委員などを歴任し、沖縄市に多大な貢献を残しています。
沖縄市初の人間国宝
1922(大正11)年9月25日-2018(平成30)年4月24日
東村出身
1951年に野村流師範の宮平三榮氏に入門、1960年に教師免許、1968年に師範免許を受けるなど伝統技法の修得に努めるとともに、1967年の国立劇場開場記念「第1回琉球芸能公演」をはじめ、国立劇場主催公演など数多くの舞台活動を積極的に展開。1998年には野村流古典音楽をカセットテープ12巻に収録し刊行しました。この間、1972年に沖縄県指定無形文化財「沖縄伝統舞踊」(歌・三線)保持者、1986年に国の重要無形文化財「組踊」保持者、1999年沖縄県指定無形文化財「沖縄伝統音楽野村流」保持者、2000年に国の重要無形文化財「琉球古典音楽」保持者(人間国宝)に認定されるなど、氏の技芸は高く評価されています。また1974年から1984年まで野村流音楽協会会長を務め、1988年からは同協会相談役として、後継者の養成にも尽力し、これらの功績により1992年に沖縄県文化功労賞を、1996年に文部大臣より地域文化功労者表彰を受けました。
5大会連続パラリンピック出場
1971(昭和46)年5月22日-
沖縄市出身・在住
2000年に交通事故に遭い、頸椎を損傷して四肢麻痺となりました。リハビリの一環として車いすマラソンに参加し、2003年にぎのわん車いすマラソン大会に初出場。2006年に大分国際車いすマラソンのハーフマラソン部門で優勝、大会新記録を樹立して以降、多くの大会に参加し、数々の記録を打ち立てます。2008年の長野車いすマラソン大会ではハーフマラソンの日本記録を更新。北京パラリンピックでは、マラソンで銀メダルを獲得。帰国後、県民栄誉賞を受賞しました。さらに、2012年ロンドンパラリンピックの800メートルで7位入賞、2016年リオデジャネイロパラリンピックの400メートルで6位、1500メートルで4位入賞を果たしました。2019年のドバイ2019世界パラ陸上競技選手権大会では、1500メートルで2位、400メートルで4位を獲得。2021年の東京パラリンピックでは400メートル、1500メートルで銅メダルを獲得しました。次世代を担う若者の目標であり、世界的なアスリートとして活躍しています。
東京五輪で県民初の金メダル
1990(平成2)年7月12日-
沖縄市出身・在住
空手を始めたのは5歳。中学生の時に師匠となる佐久本嗣男氏(劉衛流龍鳳会)の演武を見て衝撃を受け、道場に通い練習を重ね、高校、大学でも空手部に所属し多くの大会に出場。世界空手連盟が主催する国際大会の空手形で2012年9月1日から2020年1月24日まで19勝。14、16、18年の世界選手権3連覇。2つの記録はギネスブックにも認定されています。2019年には空手アジア選手権4連覇も果たしました。2021年の東京五輪では新種目として追加された空手男子「形」の決勝で、気迫の演武で目標としていた「五輪金メダル」を獲得。県民初の五輪金メダリストとなりました。同年、スポーツ分野で功績があった人に贈られる「紫綬褒章」を受章。鋭い突きや蹴りを繰り出す力強い演武が持ち味で、日本の空手形の第一人者として活躍。全日本選手権では史上初の10連覇を果たした他、世界選手権で4連覇するなど国内外で圧倒的な実力と存在感を示しましたが、2023年1月に引退を表明しました。
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