更新日:2022年3月1日

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語り部:石川榮喜さん

二〇〇六年(平成十八年)平和大使研修

沖縄戦体験者講和「皇民化教育と私の十六歳」

県立一中鉄血勤皇隊生存者
沖縄戦語り部 石川 榮喜

全文

おはようございます。

沖縄市から『平和大使』として広島へ派遣される皆さん、おめでとう。

これから、私が十六歳で『沖縄戦』を体験したお話をします。

昭和十七年、私が入学したのは沖縄県立第一中学校、戦前の沖縄本島には、県立の中学校(男子のみ)は三校しかありませんでしたよ。県立一中が、今の首里高校、県立二中が、那覇高校、県立三中が、今の名護高校です。女子は、一高女、二高女、三高女でした。

一高女と女子師範学校が、今の那覇市の安里に隣接してありました。この二つの学校の女学生が沖縄戦で多くの命を失いました。『ひめゆり之塔』にまつられているのがそうです。

平和大使として大事なことは、皆さんのパンフレットに『深く考える』とあります。『深く考える』とはどういうこと?クイズを出します。

「男の子の後ろに女の子、その女の子の後ろに男の子がいます。みんなで何人いる?」多くの人が「三人」と答えます。そうですが、答えは、二人でもあるのです。男の子と女の子が背中合わせで立っていると二人になるのです。『深く考える』とは、一つだけの答えを出すのではなく、いろんな場面を想定して考えることです。

私の戦争の話も聞きっ放しでなく、自ら受け止めて考えつつ聞くことが大切ですよ。いろんな面から判断して聞く事です。

この『命』、皆さん一人びとりの、世界地球よりも重いと言われる命。

沖縄人の多くがよく口にする『命(ぬち)どう宝』。この言葉は沖縄を発信地にして電波(皆さん)で世界中に発信しなければならない。とくに平和大使の皆さんには。世界に一つしか存在しない皆さん一人びとりのこの命…誰の物ですか?小学生に話す時、「はい、自分の物です」と元気よく答えます。

私は、さらに「自分の物だけですか?誰が生んで育ててくれたんですか?」と問い返します。

たった一つのこの命は、自分だけの物だけでなく、父母、家族、友人にとつても大切な命であることを理解してもらいます。私が十六歳に沖縄戦で米軍の捕虜になるまでの私の命は自分の物でもなく父母、家族の物でもなかった。誰の物だったと思います?

『天皇陛下の赤子』と教えられ、私の命は、『天皇陛下と国の物』だったのです。目本全国民の命がそうでした。それを誰も疑うこともなく固く信じていたんです。私は、小学校入学の昭和十一年から昭和二十年までの十年間、学校教育で校長先生や担任の先生からそう教えられたんです。先生が、そう教えるのでみんな信じたのです。『皇民化教育』によって…。

では、私が小学生の時から県立一中三生になるまで学校教育でどんなことを教え込まれたのかを話しましょう。

今皆さんの学校では『朝会』は、一週一回でしょう?私の小学生の学校では朝会が毎日ありましたよ。朝会の始めには、決まって太陽の昇る東方に向って、当番の先生の「最敬礼(四十五度の角度で頭を)」の合図で校長先生、全先生、全生徒が、天皇陛下の住む東京の方向に頭を下げるんです。

これをやらせるのが、校長先生の義務でした。そのため、毎日朝会が行われたのです。それによって、私たちは天皇陛下は神様とも信じたのです。

昭和十三年(小学三年生)から昭和二十年までの七年間は、日本の国の政治や社会情勢が激しく動いた時代でした。その動きが、国民を「戦争へ、戦争へ」と追い立てたのです。

今、皆さんは自分の好きな洋服を着ていますね。しかし、その時は、『国民服令』という法律をつくって、国民の着る洋服も国民服(カーキ色の軍人の服に似た)を着るように統一されたのです。

中学校へ入学するには、六年生は入学試験に合格した二、三人だけが那覇と首里の中学校へ行ったのです。

私たちの時の入学試験は『筆記試験』は廃止となり、頭よりは体力のある人が入学できる『口頭試問』と『体カテスト』が行われました。

入学試験の内容までが、知能よりも体力のある生徒を選ぶ戦争への道を開いたのです。

私が名門の県立一中を志望したのは、『一中生』となった兄の一中の制服制帽を着たかっこよさかっこよさに憧れたからです。でも入学して着用させられたのは、日本軍人と同じ、戦闘服に戦闘帽、足はゲートルに編み上げの靴でした。まさしく、『少年兵士』の中学一年生だった。

入学した年の昭和十七年と昭和十八ヶ年間は、平穏な学校生活の中で、毎日の授業も何かと楽しく過ごしました。

昭和十九年になると、沖縄の社会情勢八月になると、今まで殆ど見かけなかった日本軍の兵士が、北海道をはじめ各県から船によって沖縄入りし、銃剣を装備した兵士が隊列を組んで市街地を移動することが毎日のように続きました。この日本軍の沖縄駐屯が、沖縄住民を巻き込んだ沖縄戦につながったのです。

数万人の軍人が沖縄に来ても寝泊りする兵舎は、もちろんありません。県内の多くの学校が兵舎となり、学校は授業も中止となりました。中学生、女学生は、学校へ行くのではなく、毎日、『日の丸弁当』を持って、高射砲陣地造り、爆弾運び、飛行場工事に動員されたのです。島尻に残された壕や野戦病院の壕などは中学生や女学生、沖縄の人々が動員や徴用によって掘らされた壕なんです。

昭和十九年の那覇や首里の人々の目につく場所には、電信柱をはじめ、役所の掲示板、街中に軍事色の『標語』が貼られて、戦争へ戦争へと突き進んで行くんです。標語には、こんなのがありました。『撃ちてし止まん』『鬼畜米英』『国民皆兵』『一億火の玉』『一億総動員』『欲しがりません勝つまでは』『産めよ殖やせよ』等です。全国民が標語のようにコントロールされたのです。

城下町・首里に多くの日本軍が駐屯しました。『慰安所』も出来、静かな城下町の風紀を乱すようになります。にわか造りの兵舎では、晩になるとふんどし一本で酒に酔った兵士が「ツンツンデロデロ…」の歌を大声で歌うみにくい姿によく出会いました。

昭和二十年三月二十七日、私たちは、配属将校(教官)の召集により、県立一中鉄血勤皇隊(十六歳から十八歳)へ入隊させられるのです。その時の生徒は、親元へ帰った者、県外へ疎開した者、『鉄血勤皇隊』へ入隊させられた者の三つに分けられます。

親元から召集に応じて集った三年生、四年生、五年生は、鉄血勤皇隊への入隊許可を得るため帰宅しました。私だけは、教官が帰宅を許可せず、親の許可もないまま、入隊したことも親が知らないまま、地獄同然の沖縄戦に参加させられたんです。

四月の上旬、教官と学校長にいわれて、鉄血勤皇隊一人びとりの『爪・髪の毛・遺書』を提出します。隊員(学徒)の多くが「国のため喜んで散って行きます」とか「死を何ら恐れません」等と書き残しているんです。

皇民化教育を小学校から中学校になるまでの十年間で受けた教育の精神をそのまま、誰もが遺書に書いているんです。しかし、その精神は、米軍の武器、物量を見てない時の心意気で書いたのですが…。島尻(南部)に追いつめられてからの一日、一日は、誰もが生きるのに死に物狂いでした。戦争に参加していると言っても、鉄血勤皇隊は、多くの人が武器を持ってないんです。毎日が隠れているか、逃げるだけの戦争でした。

四月十三日、何百人の生徒と先生方みんなの食事を作っている『養秀寮(木造)』が直撃弾で猛火に包まれました。怪我人、戦死者(二人)が出ました。県立一中鉄血勤(学徒)の最初の沖縄戦の戦死者です。体の肉は殆ど炭化して焼けていました。

雨あられのように飛んでくる砲弾の中で、寮の庭に穴を掘って埋めました。集った隊員(学友)は「俺たちも後に続くぞ」と誰一人涙を流す者はいなかった。

その数日後に第二の犠牲者が、同じ炊事班に出て、同じ場所に埋められました。(一人は頭を切断、他の一人は腸がとび出ていた)五月になって、何百人の鉄血勤皇隊は、四、五人ずつ『各目本軍』の方へ配置されます。五月の中ごろ、炊事班と職員の三、四十人は、豊見城村の保栄茂(ビン)の壕へ後退して行きます。

沖縄戦では、沖縄の国宝級の文化財が破壊または、消失しました。まず第一に『琉球王朝』の首里城が完全に破壊されました。座喜味城もそうです。この二つの城は、日本軍が陣地にしたからです。

首里城は、沖縄戦の最高司令官・牛島満中将が首里城地下十メートルに巨大な壕(千人入る)を造らせ、自分の身を守るために首里城を楯にしたから、米軍は、首里城を全滅させたんです。陣地にしなかった中城城、勝連城、今帰仁城は残されました。軍人が陣地にした城は破壊されたのです。

島尻で最も戦争の激しかった真壁村には、中城村の中村家に似た金城家の赤瓦屋根の大きな家を、戦争でも破壊することなく米軍は残しています。

全国では、奈良・京都の神社・仏閣が残されています。米軍は、戦争の中でも敵国の文化財を残すように努めているのが分かります。

首里城を自分を守るために全滅させた牛島司令官と比較して考えることが大切です。

これから、『沖縄戦における米軍と日本軍』が『人命について、どう行動したか』について話しましょう。昭和三十四年六日、石川市で米軍のジェット機が、給食時間の宮森小学校に墜落しました。市民七人が亡くなり、百人余りの人が重軽傷を負う大事故が起きました。

その事故について、学校の先生方も気づかないことに「その飛行機を操縦していた兵士はどうなったか」ということがあります。

米軍は、沖縄戦においても飛行機が撃たれると、そこが日本軍が居る所であろうと、落下傘で飛び降りるのです。戦場でどんな極限の状況の中にあっても『ベストを尽くして、自分の命を守る』との教育を徹底しているのです。宮森小学校に墜落した米軍操縦士も落下傘で降下したのです。

ここに日本軍特攻隊が打ち落とされた写真があります。二十歳前後の若者です。その特攻隊の腰からロープでブロックが繋がれています。飛行士が生きていても海に沈むように仕組まれているのです。しかも、鹿児島から沖縄へ飛び立った特攻隊の飛行機には、沖縄までの片道分の燃料しか入れてないのがよく知られています。

生きていても飛行機は鹿児島まで帰れないのです。「死んでこい」とのことです。

標語に『愛機と共に』とありましたが、生きてはいても「飛行機と共に命までも絶った」のです。沖縄戦に参加した米軍兵士が、去る慰霊の目の前の新聞に「アメリカ兵は生きるのに懸命で、日本軍兵士は、みんな死にたがっていた」との手記を寄せています。

みなさん、世界に一つしかない『命』、地球より重いといわれるこの『命』について深く考えてください。

沖縄戦も負けいくさで、東京の大本営もそのことはおそらく知っていたと思いますが、広島県の呉(くれ)軍港から戦艦『大和』(三千三百人余の乗員)を沖縄までの片道の燃料で出陣させているのです。二億国民総玉砕の先がけとなれ」との命令で向わせて、不沈艦といわれた大和はたちまちのうちに米軍の爆撃、魚雷にやられて海底深く沈められ、三千人余の命を失っているのですよ。人の命を何とも思わない日本軍のあり方を忘れてはならないのです。

そろそろ時間も少なくなりましたが、沖縄の戦場における『衣・食・住』について話します。

島尻の戦場は、昼となく、夜となく米軍の飛行機による爆弾投下、沖縄本島を取り巻く米軍の艦船からの陸地がみんな吹っ飛ぶような艦砲弾、陸地では、何百もの砲身から打ち込まれる迫撃砲、戦車からの火焔放射器で野山も人の住む家屋も打ち砕かれました。戦争に巻き込まれた沖縄の人々は、ガマや墓の中から軍人に追い出され、小さな子どもを抱いた母親、子どもたち、年寄のおじい、おばあたちは、前も見えない程の爆撃にさらされました。

その情景を見た私は、思い出す度に胸が痛み、その住民が、赤ちゃんが、子どもたちが、母親が、おじい、おばあが、「どんな苦しい思いで命を絶たれたか」と考えると、当時の日本軍を絶対許すことができないのです。

なぜ、沖縄だけが戦場とされたのですか…。そのように、昼夜、爆弾、爆弾ですから食料も衣服も寝る家ももちろんありません。のどもかわき、腹もへり、着ている物は二ヵ月近く着のみ着のままで、髪の毛、洋服やパンツまでもシラミが真白になる程うようよしているんです。二ヵ月も洗濯をしないで暮しているのですから。そんな生活で人間の体はどうなるのか考えてみるだけでもゾッとしますよ。便もシッコも、手足の伸ばせないガマの中でたれ流すより仕方ないんですよ。これが戦争なんです。ガマの中は、汚れたくさったにおいの衣服、便やシッコのにおい、傷ついてウジ虫のわいている人の傷のくさったにおい。そんなガマに隠れ一日、一日をどうにか生きているんです。

私は、そんな悪い環境の中で、毎夜、寝る前に三つのことを祈りました一つは「今一度、澄んだ水を飲んでから死にたい」「もう一度畳の上で大の字になって寝てから死にたい」「どうせ、この命助からないなら痛みを感じさせないで死なせてほしい」とのこの三つを祈ってから眠りました。

そんな極限の状況の中で、自決する者もなく生き延びたのは、毎日、学友が隣に一緒にいたからです。その友が居るだけで命を守ることができたのです。今、その(生死を共にした)友が一人南風原町に居ます。

結びになりますが、私は『平和を守る』という言葉は好きではありません。「平和を守るとの言葉だけで行動がともなってないから」と考えるからです。

世界の平和は、わが国の平和は、簡単に何にもしないでは守れません。私は「平和は作るもの。平和は築くものだ」と確信しています。「作る」「築く」ためには、手足を動かさなくてはならないのです。『自分の出来る足元から平和作りのために行動すること』です。一人の小さなカで輪を広げるのです。

皆さんは、平和大使として広島へ派遣されますが、今日は、足元の『沖縄戦の痛み』を共有できたと思います。広島では、『原爆』で死の極限に立たされた人々の話を聞くだけでなく、『苦しんだその人々の痛み』をいかに共有できるかが大切だと思います。その痛みを共有できた時、平和大使の役目が十分果たせることでしょう。

去る慰霊の日のメッセージで、北谷町長は「平和は願うだけでは実現できない。すべての人々の不断の努力で実現される」と決意を述べ、前ドイツ大統領ワイツゼッカー氏は、名桜大学のティーチインで「過去に対して目をつぶる者は過ちを繰り返す。目を見開く者は未来の平和を体現できる」とのメッセージを残しました。心に深く刻んでおく言葉です。

広島への平和大使としての願いが無事叶えられるよう祈っています。

長い時間ありがとうございました。

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