更新日:2022年3月1日

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語り部:比嘉静さん

二〇一一年(平成二十三年)平和大使研修

沖縄戦体験者講和

比嘉 静

全文

戦時体制とは

私は大正十五年生まれで、ひめゆり隊員の一員です。でも、部隊と一緒に南部の戦争には参加していません。逃げたわけではありません。
その頃は、校門から三百メートルくらいに家がある人でも皆宿舎に入れて、朝から晩まで徹底的に教育されました。私ももちろん宿舎に入っておりました。
だんだんと日本の軍隊が沖縄に入るようになり、学校の教室が兵隊の泊まる兵舎になりました。私達は勉強も半分もできません。その内に、度々の空襲で寄宿舎もあちこち爆撃されました。家から通学できる人は呼び集められて、お家から通いなさいと帰されました。私の家は那覇で、家から通うことになったのが、昭和二十年の二月頃です。一ヶ月くらいお家から学校へ通いました。寄宿舎に残っているのは、家から通えない、遠距離の人で、その頃は嘉手納辺りから汽車通学で学校に通っている人もいました。その人達の中にも何名か寄宿舎にいる人もいます。それから、宮古、八重山、国頭そういう所の人達は寄宿舎に残った訳です。私達は学校から家に帰って、その人達は寄宿舎に帰って。そのように生活していたのですが、三月二十三日に「(米軍が)上陸しそうなので那覇から立ち退け」との命令が出たので、私は家族と共に山原に逃げました。途中、学校へ寄ったのですが、夜になっていたので、学校はもぬけの殻で誰もいません。寄宿舎にいた友達は皆「ひめゆり部隊」として軍と一緒に行ってしまい、誰もいませんでした。仕方なく私は家族と一緒に山原の方へ逃げました。そのため、命は助かったようなものかもしれません。ひめゆりの塔に奉られている人達は、首里・那覇の人よりは遠くの人達の方が多です。学校と一緒に行動を共にしたんです。

今日は、私が経験した戦争のお話をこれから始めます。始めに、私達がどんな教育を受けたのか。戦争をするには準備が要ります。心の準備と体の準備。心はまず、戦争を受け入れる心。「戦争をやってもいいよ」という事を国民皆が心に持ってないと戦争というのはできるものではありません。また、敵に出会った場合、戦いますね、体力がないといけません。体が強くなければいけません。ですから、心と体の準備が戦争をするためには必要なのです。そこで目をつけられるのが学校の教育です。「戦争をやってもいい」という心を持つには、長い時間かかります。一回や二回ではだめ、長い年月、もちろん体もそうです。ですから、狙われたのが、学校教育なのです。
学校教育と同時に、戦争している時の世の中の様子を少しお話しましょう。日本は十五年間ずっと戦争をしてきました。ここはまだ満州、昭和六年の時で私が六つの時です。満州から始まって、だんだん勝ち戦ばかりしていたので、いい気になったのでしょう。満州から北シ、中シ、南シといって、日本はどんどん戦争している地域を広げて、この辺まで行っています。私の兄は兵隊としてボルネオ辺りにいたようです。日本の兵隊はこれだけ全体にばらまかれています。
戦争と戦場というのがあります。戦場というのは、直接撃ち合いをしている所。十五年間戦場がこのように移っていきました。日本の国内では、沖縄だけが戦場になっただけで、国内は静かです。しかし、やっぱり戦争中の世の中ですから、今とは大変違います。
そこで戦争をしている時の世の中の様子を少しお話します。今皆さんは夕食を家族皆で一緒にとることができるでしょ。ところが、その頃はそれができないの。まず、家庭に丈夫なお父さんはいません、丈夫な伯父さんもいません。高校生、あるいは大学生のお兄さんやお姉さんもいません。どこへ行ったのかと言うと、お父さん達は“召集令状”というのが来ます。天皇の命令で「あなたは兵隊になって戦争へ行きなさい」という命令です。これは絶対「嫌だ」とは言えません。身障者(見えないとか、片腕がないとか、お話ができないとか)ならば断われますが、そうじゃない人は絶対に拒否できません。ですから、どのお家にも、お父さんや伯父さんやちょうど年齢が二十五~六の人なんていません。お姉さんもいません。どこへ行ったかというと、“軍需工場”へ行ったのです。戦に使う道具を作る工場です。大砲の弾、鉄砲の弾、もちろん機関銃。兵隊の靴とか洋服とか、兵隊の食べる物とか、全部戦に使う道具を作るのが軍需工場です。だから、若くて元気のある兄さんや姉さんはここへ行かされました。沖縄には軍需工場はなかったと思います。戦場になる恐れがあるから、皆本土に行って、戦争に使う色んな道具を作り出しました。
そのうちに、沖縄は戦場になりそうだと、あまり人がいると戦の邪魔になるので、子ども達あるいは希望者は“疎開”させました。那覇のたくさんの学校の子ども達がお父さんやお母さんと離れて、先生を中心にお友達と九州の宮崎あるいは大分に疎開しました。ところが、疎開船“対馬丸”が那覇を出てやがて鹿児島に着くという頃、米国の魚雷で沈没して、千人近くの人が皆、海の底に沈んでしまった。九州あたりに疎開したのが、大人も含めて十万人程。台湾にも疎開したのが半分くらいでした。こうやって沖縄に居る人間を減らす方法もとられました。
沖縄に残っている私達の生活はどうかというと、空襲の心配があるので、夜は絶対明かりを外に漏らしてはいけません。あの頃電気が付いたのが大体六時半頃からで、九時頃には電気は全部消えました。電機会社から全部ストップしています。その後はもう真っ暗です。自分達の家にあるろうそく、石油とか、家の蓄えの明かりでした。ですから、皆夕飯も早くすませて、ランプをつけてお話し合いをしても、「光が絶対外に漏れてはいけない」というので、“灯火管制”「光を絶対外に漏らしてはいけません」。今のように、ガラスのあるお家というのはあまりありません。板戸です。それでも板戸の隙間から光が漏れたりすると、空襲の目印になりますから、灯火管制だと言って皆はどうしたのか?お家の部屋の周りに幕を作りました。自分達の着物を解いて縫い合わせて、どの部屋も光が外に漏れないようにしました。そうしながら、時間をみては、昼も防空壕を掘らないといけません。いざという時には防空壕に隠れられるよう、早く逃げないといけない、遠くまで。できたら山の所ですけれど、街があって、那覇なんか家の塊でしょう?遠くまで行くのは時間かかります。それまでにはもう敵が来ます。ですから、自分の家の庭。私の家は久茂地の学校のすぐ隣にありました。家の庭を掘るんです。家族が入れるくらい深く掘って、雨が降ると下に水がたまりますから、板きれとか棒とかそういうものを渡して。上には大きな板とか竹とかで覆います。入口の二か所だけちょっぴり開けて、そこからもぐり込むようにして入る。もちろん中入って立てませんから、こうやって縮こまって。

昭和十九年、十月十日に那覇市が大空襲を受けました。その時は私の家もすでに防空壕ができていました。でも、のんびりしていたのか、掩蓋はしてなかったんです。それでも、家族皆(防空壕に)入って。どんどん飛んでいるのが見えました。夕方はそこから逃げて、那覇市が作ってくれた大きな壕の中に行きましたら、大勢の人がいます。そこはもう岩の間をくぐりぬけて。防空壕は戦争が終わるまでそのまま続きます。空襲警報は昼も夜もあります。空襲は頻繁です。最初の頃は、空襲警報はサイレンでした。ところが、サイレンは飛行機に聞きとられるのでだめです。メガホンをもって。今のように、どの家にもラジオがあるという時代ではありません。持っているのは政府とか、治めている長の人達の所にしかありませんから、結局、軍の方から伝える情報しか察知できません。
空襲とは爆弾を落とすだけではないんです。爆弾というのは破壊します。焼夷弾というのは燃やします。空襲が来たときには爆弾を落として家を全部破壊するだけでなく、次に焼夷弾を落とします。焼夷弾は火になって燃やします。その次に来るのが身軽で動きの速い戦闘機が一緒についてきます。何をするのかというと、空襲で逃げる人達を上から見て、急降下をしながら機関銃で撃ちます。本当に「雨あられ」という言葉のように。一機や二機じゃない、いくつもの編隊を組んだ戦闘機が同時に急降下をしてくるんです。、逃げなくてはならない。避難のために逃げる人を狙ってバーッと来ます。私も一度は狙われたと思います。寄宿舎から「空襲の時はこの壕に逃げなさいよ」と決められた場所に逃げる時に。ちょうどその時発熱していて、「明日は勤労奉仕に行かないで、あなたは病室に行きなさいね」と言われた朝に空襲にあいました。皆はすでに壕に行っています。私は寝巻のままで、着替えて出るまでに遅かったんです、皆より遅れて決められた壕行くときに、多分私を狙ったんじゃないかな。「間に合わない!」って思ったから、臨時にあちこちに壁をえぐるように個人壕が、逃げ遅れた場合に隠れるようにと色んな所に掘られています。そこにサッと隠れました。しばらくしたら、グォーッと戦闘機が急降下してきました。ここにあった木の枝とかススキの葉っぱなどが全部落ちたんです。ハッと思ったら、私が隠れている壕とお隣の壕とはどれくらい離れているんでしょうか?ここから廊下ぐらいまでは離れているかもしれません。そこにも私と同じように生徒が隠れたんです。そしたら私とお隣の壕の間、少し向こう寄りに爆弾が落ちたんです。爆弾は「壊す」と言いましたね、燃やすじゃなくて。だから、そこの土がバーッと盛り上がってお隣の人の壕を全部土でかぶせたんです。
「やられたかな」そこはもう砂煙で目が見えません。そしたら兵隊が走って来て「大丈夫ですか!」と私に声をかけてくれました。ハッとして隣を見ると、隣の壕はやられています。一学年下の金武の人でした。なぜ兵隊が近くにいたのか、私たち学校の教室が兵舎になっていますから、兵隊がいるんです。
空襲と言っても、焼くだけではなくて、今のように爆弾を落とす、焼夷弾を落とす、そして機銃掃射の戦闘機も来る。この三つが一緒に来るんです。昭和十九年十月十日の空襲には一四〇〇機の戦闘機が来たようです。波状攻撃といって、バーッと行ったと思ってほっとしていると、また来るんです。波のように。だいたい七時から午後四時まで続きました。私の家もこの空襲で丸焼けになりました。
その頃は、一般の家庭にラジオはありません。電話も今のように普及しておりません。戦争の様子は軍が知らせる分しか分かりません。決して自分達の不利になな“負け戦”の事は絶対報道しません。時々軍が皆を校舎に集めて戦争の映画を上映します。それもみんな勝っている所だけを映して、負けている所は全然映してくれません。だから、私たちは実際の様子は知らない訳です。全部隠されているんです。
昭和十六年、私が二年生のとき、その日は非常にのどかな日だったので、学校の裏の松林へ行って、皆そこにいて休みたかったので、「今日は思いきり、なんでもしゃべろうよ!クラス会をしよう」と、皆気楽になって色んなことを話しました。ある人が「日本は絶対に勝つよね、だって、神国だから!」と言ったら、皆「そうよ、そうよ!」と言いました。そこへ私が「でも、神様が平等ならば、なぜ日本だけに味方するの?」と自分の気持ちを言ったんです。そうすると「あなたは非国民だ!」と一斉にクラスの皆から言われ、指を指す人もいました。(非国民というのは、スパイという意味なんです。)私は本当にそう思っていましたから。そう言われ、友達と気持ちの上で少し間が出来ました。その時に「絶対この戦争の終わりを見るんだ」と心に決めました。そう言う風にして、自分の感じたことや批判めいたことが周りに知れたらすぐ憲兵に連れて行かれます。それだけでなく、友達でも一般の人でも許さない、自分の考え、国のやる事に少しでも批判めいたこと、お互い同士でも言わさないんです。ですから「非国民だ!」と皆に言われたら、もう何とも言えません。ただ、心の中で「戦争の終わりまで必ず見るんだ!」と自分で心に決めました。
それから、先程話をした「軍需工場」で、軍の必要な物を作ります。一般の私たちの生活必需品というのは後回しにされて、工場が非常に減らされました。そこで、私たちの生活の中に「配給」というのが出ます。まず、食料。五人いる家族には、五人分だけ。「衣料切符」というのは衣服・靴等。五人分ならば一人二点で十点。靴を買いに行く時は、その切符を持って行きます。お店に行っても商品がない。作るのが非常に少ないんです。だから、「今日はタオルの配給ですよ」とか、日が決まっている時に行きます。タオルも一人五点くらいでしたか。そうすると、三人いる家族は十五点、その内からタオルを二枚買いに行くと、衣料切符の中から差し引かれるんです。日用品は全部配給です。いくらお金があっても買えません。売りません。靴も配給です。靴は成長するとともに足が大きくなっていって履けなくなりますよね。あの頃の靴は今のように丈夫にできていません。周りがゴムで、あとは布。すぐに穴が空いてしまいます。皆穴のあいた靴を履いているんです。狭くなって履けなくなって、買いに行っても無いんです。仕方がありません。米軍が上陸して沖縄が戦場になった時には、大人も子供も、ほとんどの人が裸足で逃げたんです。非常に生活が厳しくなりました。これは今までの生活の様子です。
それから、日本軍が沖縄に入ると、軍が自分達の食料を運んでくるが、全部は運んでこなくて、現地調達になったんです。「沖縄にある物で使え」ということなんです。沖縄にある物といえばお芋がありますね。上等のお芋は全部軍に出せ。「供出」といいました。農家の人は美味しい上等芋は全部軍に出して、自分達はチビ芋。細くなった芋を炊いて食べたんです。「自分達は兵隊だ!」と威張っているから、農家を回って「芋はないか」と請求します。そうすると沖縄の人は皆いい人ですから、自分達のお芋の中からまたお膳に持っていったんです。兵隊達は大抵、一人か二人で農家を回って、多分食料が足りなかったんでしょうね。個人的に回ってお芋を出させて食べます。芋の皮を剥いて、お膳には剥いた芋の皮がたくさんある。私たちは羨ましくて。すると、私の父は兵隊達の所へ行き、「その剥いた芋の皮をください。」と貰ってきて、手のひらの中でこねてこねて、柔らかくして私達にもあげ、それを食べました。日本の兵隊は、沖縄に来て、沖縄の人を助けた事もあるかもしれませんが、あまり聞きません。
沖縄の大きなお家がありますね。金持ちの大きなお家。そういう所は軍の事務所になりました。一番座と中座がありますよね、そして後ろの方に裏座があって。クチャグヮーって言うのですが。表は軍の事務所。一般の兵隊ではありません、上官の人達です。家の主達は、後ろの方に暮らしていました。大きなお家は物凄く大きな石垣で囲まれていて、子どもの頃は「お城かな?」と思う程、物凄く大きな石垣で屋敷を囲んでいます。その石垣も皆壊されました。日本軍によって、自分達の陣地を作るために使われます。だから、「あそこの家の石垣、とても綺麗で好きだったのに!」行った時は何もなかった。全部壊されていました。それから、山にある松の木なども陣地の防空壕の柱にされました。日本軍がいかに物が無かったかということ。松で大砲を作ったんです。見せかけの大砲です。空に向けて偽物の大砲をたくさん置いたんです。まるで、私達が歴史で習った“楠木正成”の「千早城」で人間に見せかけてわら人形を作ったというのに似ています。いくつも読谷の飛行場の周りの畑のあちこちにある。そういうのが日本軍の状態でした。
さっき私は「戦争をするには準備がいる。心と体の準備がいる。」と。「戦争してもいいよ!」というのを皆の心に植えないといけません。それで、「学校の教科書、学校の教育が狙われました」と言いました。日本は、天皇を中心とした国ですから、なんでも天皇の言う通り。教室には「天照大神(アマテラスオオミカミ)」といって、天皇の一番上のご先祖様。天照大神その人の描かれた絵が教室の黒板の上にあります。私達は教室の出入りは、毎回それにお辞儀をします。それだけではありません。学校には必ず校門の近くに「奉安殿」というセメントで作られた小屋がありました。そこには天皇陛下の写真が祀られています。行き帰りに奉安殿に向かってお辞儀をしました。とにかくなんでも天皇中心にしていました。私たちの勉強が全てそうなって。向こうに置いてある教科書は一年生から六年生のものです。これは戦後にすぐ文教図書へ行って買いました。なぜ買ったのかというと、私がどんな教育を受けたのかを忘れたくなかったのです。中身は、「国体」や「神話」に関するものが一年生ではこれだけ、二年生では…。
「国体」というのは、天皇を中心にした考え方です。学年が進むにつれて中身が多くなってますね。戦争や戦記、戦争の記録。題材が、一年生ではこれだけ、「扇の的」など昔の物語から全部このように書かれています。そうでないもの。どっちでもないものはいちいち書きませんでした。全体で五一の内、四三題材。これだけ国定題材にあったんです。徹底的に皆の頭の中に天皇中心とした考え方を植えつけたんです。誰も文句も言えずに、戦争で死ぬことを誉(光栄・最高の幸せ)とした考えを植えつけた訳です。
私はその頃、師範学校の生徒でした。卒業したら先生になる資格を持つ学校なんです。「あなた方が教える生徒は、立派な国民になるように」と毎日校長先生から頭に植えつけられました。「貴方がどんな生き方をしたか、どんな立派な生き方をしたか」は「貴方がどんな死に方をしたか」で決める。ひめゆりの友達も「自分達が立派な死に方をしたら、立派に生きたんだ」ということになる。ですからだれも逃げないでああいう風に最後の最後までやったんです。

ヤンバルで

私は南の戦争には参加しないで、家族で山原の方に行きました。三月二十四日に那覇を出て、二十五日に読谷にいるはずのおじさん、おばさんの隠れている防空壕へ行ったら、爆破されて跡かたもありません。そしたらすぐ空襲があって、その日一日木の茂みの中、日が暮れるまで隠れて。日の暮れた晩、そこを出発して国頭に疎開したんです。今の国道五十八号線をずっと避難民が続いているんです。年寄りと子ども、身障者。できるだけ子どもも荷物を持って。列が延々と続いています。夜しか歩けません。昼は空襲、機銃掃射が道路に沿って来ました。昼の間は皆近くの茂みの中に隠れて。夜になると、「どこに隠れていたんだろう!」と思う程の人がドッと出て長い列を作って山原まで行きました。
二十七日の朝、辺土名に着きました。中部から南は戦場になりそうだから、山原は避難できるよう県が山の中に避難小屋を作ってありました。私達は二十七日の明け方にそこに着いて、やっぱり毎日毎日空襲があり、そこでも安心できません。その日に米軍は比地川の下流をつたって偵察に来るんです。三人位で来て、今日はここまできたら、翌日はもう少し先まで来て、更に先に…という風でした。三人から四人くらいは銃も持って、隠れていないか調べに来るんです。四月の二十二日、私達も川の上流の避難小屋にいましたけれども、どうも話を聞くと、不思議ですね、なんとなく噂が伝わります。敵が川をつたって毎日上流まで来る様子が耳に入ったんです。敵が来た時には、山の向こうの深みの中に使い古した木炭を作る炭焼き釜があり、壊れているのでそこを私たちの隠れ家にしようと家族で相談をしていました。
いつも家にいるのは、お父さんお母さんの前で寝るのは嫌だから、下の川の側にわらびの中に入り込んで、日記を書いていたんです。昼は明るいので日記が書けます。戦争の時のことを忘れないようにばらくすると、ポトンと水の中に石が落ちる音がしたので、ハッと見たら、向こう岸に米兵が銃剣を持ったまま渡っていくんです。誰かが石を蹴飛ばしたんでしょう、川の水にポトンと落ちる音でハッと気付いたんです。それからもう小さくなっていました。私に気付かないで、米兵は向こうに行きました。ずっと向こうに行くと、比地の滝があって、その近くから上の山の方に上る道があるんです。兵隊達はそこに行くらしく、隠れて通り過ごしてから駆け足で自分の避難小屋に行って報告して、すぐあの壊れた炭焼き釜の行き、大急ぎで木の枝を切って来て炭焼き釜の入口を木の枝で隠して隠れていました。米兵が行った山の上には避難小屋があって、そこから女の人の泣く声、子どもの泣く声、大人の泣く声が全部聞こえるんです。怖くて、怖くて、聞いている私たちでさえブルブル震えるくらい。そして、私達は動きません。息もできないような苦しさで、日が暮れるのを待ちました。米兵達は帰ったのか、やがて泣き声は聞こえなくなりました。
翌日の四月二十三日に私達は思いきってそこを出ました。どこ行くか分かりません、とにかく逃げます。昼は行動できません、動くのは夜です。夜に山のてっぺんに出たら、まぁ、驚きました。たくさんの列ができているんです。避難民の列。尾根を歩いていますから、月夜で見えるんですね。皆私達と同じ思いで逃げて来たんだな、山の尾根を三十人くらいの人達がずーっと歩いていきます。夜が明けると皆消えます。昼間は歩けませんから、皆谷間の方に降りて、食事をしますが、火が燃やせません。煙が立つと目印になって、すぐ米軍の偵察機が低空してきます。何回か回った後はその煙の上がった所に機銃掃射をしていきます。ですから、食べ物も生のものを食べるしかありません。お風呂も入らない、着替えも無いので、着物にシラミがいっぱいわきます。頭にもわきます。夜が深くなるまで、皆自分の着物を脱いで、着物のシラミをとるか、川の水を飲むか、芋くずをお椀に入れて手でかき混ぜて、芋くずが沈まないうちにぐぐっと飲む。そのような食事をしていました。夜は自分達だけだと思って出たら、あっちからもこっちからも人が来るんです。誰も山道を知らない、私達家族だけでは怖いから、「集団の力」を借りて、歩いていました。
ある時、アメリカの陣地があるらしい、そこを避けて行きます。雨の多い年でした。上から下までずぶ濡れで、皆雨の雫をたらしながら歩いているんです。おじいちゃん、もしくは残ったお父さん達でしょうか。戦争がいつ終わるのかわからないから、冬のことを心配して布団を持っている男の人達もいます。毎日の雨で、布団が水を吸い込んで重くて持てません。仕方がないので「いつか取りに来るさーねー」と言ってその辺の枝に持っていた布団を掛けました。道の途中で布団が掛けられているのをいくつも見ました。そう言う風にして、着の身着のまま。せいぜい持っているものは着替えが一枚二枚入っているかどうかです。上から下まで雨水をたらしながら、雨がそのまま素通りです。そのような中で、一日でもいい、一回でもいいから、屋根の下で寝たいなぁと思いました。
そうやって段々南の畑のある方に皆めがけているんです。畑に行くとお芋があるので。ところがそのお芋も、避難民が何回もほじくって取って、ほとんど残っていません。お芋は土の中に埋まっていますよね。これを探すのに苦労します。畑があるという事は、近くに人家があり、入って行って何か盗もうと思っても盗むものはありません。盗むのはせいぜい食料です。家の人も用心して滅多にその辺に食料は置きませんからそこもダメです。結局畑に行って、手さぐりで芋のつるを探して。お芋の葉っぱが出てるみたいだなぁと言って月夜に探して、つるがある!と思っても鍬がありません。どうやって掘るかというと、皆こういうのを自分達で作って持っていました。「きびく」といいます。手さぐりでお芋のつるを探して、この辺かなと思ったら力をこめて地面に突き立てました。その年は雨が多いと言いましたね、幸いに土が軟らかかったんです。でも大きいお芋に出会うことはあんまりな無かったです。前の人が取って、また次の人が取って…時には五人、十人くらいの人がその畑を漁っていたんです。そしたら茂みに隠れていた畑の主が「いったーはひゃー!」と棒を持って追いかけてきます。私達は逃げなければなりません。人のものを盗んでいるのですから。そういう人に追われて、山原の方は段々畑が多いので、下の畑に降りて、また下の畑に…という風に逃げてずーっと下の方に行くと、そこは東村の所です。ここは米軍が占有して綺麗な道にして砂利を敷いて、昼も夜も、夜、米軍さんたちは戦争しません。休むはずです。私達はその占有された所を越えるために遠回りをして二晩かかりました。夜が明けるのを待つんです。昼はずーっと米軍の戦車や装甲車、ジープが通る。しかも、機関銃が添えられて、どこかに怪しいのがあったらすぐ撃てるように。そういうのがずーっとですから、昼は身動きとれません。私達はどうしてもこれを通って、畑の多い中部の方に行きたいんですが、二日かかりました。道の両側には電線が張られていて、触れたらすぐ本部に伝わるように、電線が斜めにも横にも縦にも。私達が通る山道のすぐそこに。ある時、小さい子供がそれに触れたらしく、すぐ照明弾がいくつも上がって、次は機関銃で狙われます。雨が多いと言いました。良く滑ります。他の場所でもガシャーンとお茶碗の割れる音が聞えました。誰かが荷物を担いだまま滑ったんだなと思ってると、今のように照明弾が上がります。本当に真昼のような明るさで、いくつもいくつも照明弾が上がって、機関銃が私達をめがけているので、止むまでそのまま待っていなければなりません。子供達もだんだんそれが分かってきたんでしょう、初めは泣きました。さっき言いましたね、集団の力でしか動けなかった。集団と言っても顔見知りじゃないです。那覇の人も、山原の人もいる集団です。そういう中で、一日一日を南へ南へと行って逃げてきた訳です。
今言ったみたいに、食べるものがありません。アフリカマイマイ、カタツムリをした。アフリカマイマイはご馳走でした。見つけたときには「わー!ご馳走にありついた!」と言って家族の分も取って明日食べようと思ってやかんに入れていましたが、翌日見たら無いんです。アフリカマイマイ五匹盗まれていました。姉さんは体が弱かったので、食べさせてあげたい!と思っていたのですが。今でも見ると、「あぁ、あの時はアフリカマイマイに助けられたなぁ」と思います。もちろんトンボも食べました。「これも食べられるよ」と教えてくれたのは、お年寄りが多かったです。ヤギが食べる草はみんな食べられると教えてくれました。それからいよいよ食べるものがなくて、ソテツの幹を食べるんですが、外側は堅いので、そこは全部削り取ります。中に真白な幹があり、それをそのままではなく、更に砕いて、ザルに入れて川の水に二、三日置きます。腐り始めて柔らかくなった所にウジがわいてます。できるだけ取って、取りすぎると食べる所が無くなりますから、そのまま炊いて、食べながらも「あ、ウジが入っているな」と思っても、そんなこと言っていられないので、目をつむって一緒に食べました。そういう風にして、耐えて来たのです。だから、私の体の中は全部作りかえられたはずと思うんですよね。こうして私達は昼は隠れ、シラミをとり、休んで、夜になったら起き上がって歩き始める。
休んでいる時に、素晴しいものを見ました。身障者の青年。目の見えない人は別として、片腕のない人とかは兵隊にはなれません。それから「おひ」、話のできない人。片目しかない人、片足しかない人、そういう身障者の青年たちも私達のグループにいました。お年寄りが多いので、一日に進む距離はたいして長くなく、いくらも歩けない。ある時、身障者の青年達が五人ほど集まって何か相談をしていたんです。なんだろう、と思って聞き耳を立てていたら、皆道が分からないから、昼間、少人数だと敵に見つかりにくいから、昼の間に三人くらいは道を探しに行く。夕方には帰って来て皆に道を教えるんです。涙が出ましたね。身障者が集まって、昼の内にある程度道を探して、年寄り達皆を連れて行く。そういう場面もありました。私達が道に迷った時も「皆そこで待っていて」といって、この人達が三人ほど道を探してきて、また連れて行く。さっきの米軍占有地のあの道。北から南に移る時に二晩かかったっていう道。それで後一日待とう、ということで下の方の谷間に降りて待つ。三日目の時にようやくこの道に出ました。そうしたら、ガソリン臭い。米軍のジープです。でも、ようやく山から下りて、南の方に行きました。南の勾配が高すぎるんです、なかなか登れません。やっとで登ってどれくらい入ったんでしょうか、七十人くらいいた先頭の方で「ここは道がない!先は道がないぞー!」って聞こえたから、また降りて、西の方へ行ってまた登れそうな所を探しました。誰かが登ると皆そこについていくんです。自分だけの力では怖いから。一キロくらい行った所は、沼地です。ワラビダケがいっぱい生えていて、入ると結構深いんです。もうこれ以上は歩けません。子どもも歩けません。ちょっと小高い丘を見つけて、その内に夜が明けてしまって動けなくなりました。真正面はアメリカ軍の陣地らしいんです。動いたらやられます。結局、ちょっと盛りあがった所に皆座って昼の間じっと待っていることもありました。それで、私達はやっと天仁屋の学校に辿り着いて、天仁屋の学校は北からも南からも、大きな道が無いんです。車が通らないから米軍も来ないみたい。避難民がいっぱいいました。やっぱり大勢いると、気持ちが楽になります。
そこに二ヶ月もいました。でも、食料がありません。安全な所は食料が無いんでら天仁屋まで来るのに三ヵ月かかりました。それで、天仁屋から五、六キロ離れた所までお芋を取りに行きます。昼の十一時頃、自分達も小屋を出て、六時、七時頃まではじっとして米兵が帰るのを隠れて待ちます。彼らが引き上げたら、夜、私達の芋掘りの番です。

捕虜となって

こういう生活をずっと繰り返して、天仁屋の学校にいる時に、突然、銃を持って武装した米軍達が二十名くらいだったでしょうか、あっという間に囲まれました。その時に避難民に紛れて隠れていた日本兵がいたみたいで、二人程パッと逃げた人が、米軍に撃たれました。皆集められて、「小屋から出なさい、教室から出なさい」と出されました。至近距離で銃を向けられていました。私は外人を初めて見ました。色が白くて、鼻が高くて、目が青くて。「あ、これ人間だ。やっぱり人間だ!」という気持ちが湧いたんです。そしたら、向こうが私に「Can you speak English?」と聞きました。わかるんですね!その言葉が。分かるから余計に人間としての深みが出てしまって、私は思わず「No. I can not speak English.」と英語で答えてしまったんです。そうしたら向こうは大喜び。遠くで見張っている友達も呼んで、身振り手振りも加えて英語でぼんぼん言うんですけど、わかるもんですか!私はそれからは分かりません。そんなに沢山言われても。だから、「I don’t know. I don’t know.」ばかり繰り返しました。結局ここにいる人皆一緒に捕まって、集められて、通訳の人に「引率して収容所に連れて行くから、準備しなさい。」と言われましたが、ウチの父は心臓病で、ゆっくりゆっくりしか歩けません。母も足を怪我しています。姉は少し病気がちで歩けません。弟と妹、弟はその年一年生に上がる。妹は三年生。とても皆と一緒には歩けない。思い切って自分の知っている英語を使って、ブロークンイングリッシュで米兵に事情を説明して、家族だけここにいてもいいかと、単語をつづって米兵に言ったんです。分かってくれました!結局、うちの家族だけ残して、おまけに、アメリカの美味しいお菓子の入った物を私にあげて、皆はその日で収容所に連れて行かれました。
残ったのは私の家族だけ。しかし皆がいなくなってしまうと怖いもんです。今まで集団の力で元気だったが、怖くて、怖くて、二晩しかそこに居られませんでした。二晩明けたら、家族だけで山を降りました。その時もお母さんは、大きなザルに食料を積んで頭にのせて、おまけに私の荷物のリュックも背負ってます。お父さんは心臓が悪いので、杖をついて、お母さんとゆっくりゆっくり歩いてきます。私は姉さんをおぶって、弟と妹はそれぞれやかん持ったり水筒もったりして、四人で先に歩いて、いい木陰をみつけたら、姉さんを降ろして、弟や妹を休ませて、私はすぐに引き返して、お母さんが持っているリュックを交代で持って歩いて、姉さん達がいる所でリュックを置いて姉さんをおぶって、弟や妹を連れて先を歩きます。見える範囲、大体百~百五十mくらい。これを繰り返して、八キロくらいの距離を丸一日かかりました。ずっと歩いて汀間川の上流にきました。「収容所には病院があるって聞いたから、姉さんを早く病院に連れて行きたい」と思っていました。ずっと行くと、川で米兵達が遊んでいるらしい、キャーキャー騒いでいるんです。近くにはジープが停まっていました。「そうだ、姉さんを早く病院に届けるにはこれしかない」と思って、ジープの横に姉さんを降ろして待っていました。米兵達が来たら、また私のブロークンイングリッシュで言葉をつづったんです。「姉さんが病気なので、速く病院に行きたい。貴方達の車に乗せてもらえますか?」と聞いたら、「OK.」してくれました。米兵が姉さんを抱っこしてジープに乗せて、すぐ瀬嵩の病院に連れて行って、病院に姉さんを預けて帰る時にまた米兵は持っていたお菓子をくれて、お礼を言ってお父さんとお母さんの待っている山の向こうまでかけて行きました。
山はもうとっぷり日が暮れていました。姉さんをおぶって病院へ向う途中、死人の臭いがしたんです。姉さんに「鼻をつまんで!」と言って、そこを走り抜けました。見たら、真っ黒く大きくはれ上がった拳を天に突き上げ、稲段の中で仰向けになって死んでいるんです。兵隊らしかったです。行く時はそれが見えました。帰りは真っ暗で何も見えなかったのですが、死臭が臭って来たんです。「あぁ、あっちだな。拳を挙げた兵隊のところは。」と思って、走って山の奥まで行きました。お父さんとお母さんがいたはずの場所に、二人はいなくて、大きい声で「おかーさーん」と呼んだけれど、真っ暗闇の中、こだましか返ってきません。何回も何回も呼んでいる内に、遠くの方から「ここよー、ここよー」と聞こえました。その声のする方にまっすぐ向かいました。余談ですが、私達は戦争の訓練の中に、目標を見つけたら、目の前に道が無いからといって、曲がって道を探して行くと、必ず目標を見失う。目標を見つけたら、たとえそこが川であろうと真っ直ぐ行けと教えられました。ですから、その声のする方へ真っ直ぐ行きました。周りは田んぼで、溝もあります。小川もあります。その声に向かって真っ直ぐ行きました。田んぼの中も歩いて、あぜに上って小川の中も真っ直ぐ行って。少し外れた所に道はあるんです。道をたどっていくと必ず目標を見失います。幸い浅い川だったから良かったんです。声のする所へ行きましたら、空き家で、お母さん達はそこを見つけたからそこにいたんだと言いました。私達はやっと合流できました。
汀間という所で過ごして翌日、姉が亡くなったのが八月十五日、終戦の日。その時、「日本は負けたってねぇ」と言いながら亡くなりました。姉さんが死んで、そしたら次は十二月九日にお母さんがマラリアで亡くなりました。その八週間目には、今度はお父さんのお葬式。結局弟と妹二人は私に預けられて、十八歳で三人の妹達を背負って、戦後を出発しました。その一年後、山原でお母さんと姉さんを埋めた所、お父さんは石川の方で亡くなりました。その場所は私しか知らないので、山原が変わらない内に、早くお洗骨しないといけないと思って行きました。幸い、兄が復員してきたので兄と叔母さんと私と三人で洗骨に行きました。姉さんは浜辺の近く、お母さんは山一つ越えて向こう、同じ日に行きました。初めに姉さんのお骨をあげて、兄と叔母さんはお母さんのお骨をあげに行きました。結局姉さんを掘り上げて、鉄板にお骨を全部並べて、私一人で姉さんを供養しました。その時もちっとも怖いとも思いません。何しろおんぶして過ごしてきたでしょう。姉さんは「ごめんねぇ、私はもう死ぬんだのに。」「そんなこと言うなら降ろすよ!」と私は強がりを言いながら背負ってきた姉さんのお骨を見ながら「全部あるよね?指、抜けてないでしょ?」とお骨に向かってお話をするんです。長い思い出話や、歌を歌ったりして姉さんのお洗骨を済ませました。

戦後、宮森で

こうして私は弟達を見なければならない状態で戦後を迎えて、幸い教員の資格を持っていましたので、初めは石川中学に十年勤めて、次は宮森小学校に移ったんです。
そして移って二年目に、なんとアメリカ軍のジェット機が私の教室に突っ込んできたんです。ちょうどその時ミルクの時間で、ミルクをついでいました。初めはミルクの当番さんがついでいましたが、ケンカが多いんです。「せっかくの楽しいミルクの時間をケンカじゃ困るでしょ。じゃあ先生がついであげるからね。」ということでヤカンを持って、一人一人ついで回りました。「おかわりをしたい人は手を挙げなさい」というと前から四番目のイハマサユキくんが手を挙げたので、ついであげました。
マサユキ君と私との距離はだいたい三十センチくらいでしょうか。小学校の机はこれくらいですよね。マサユキ君のコップにミルクをつごうとしたその時に、ガガガガガー!火の熱さと火の流れと音粉が全部一緒にきたんです。私は思わず「伏せー!」と大きな声で言ったらしいんです。自分では憶えていませんでしたが、後で生徒に聞いたら「先生が“伏せー!“って言ったから、僕たち机にもぐったよ」と言っていました。それで、大きな音が二つ鳴ったあと、静かになりました。周りを見渡すと、四分の一、もっとでしょうか、天井がありません。青空が見えます。そして、机・腰掛けはすべて片側に引き寄せられていました。
生徒達が我に返ると「先生―!」といってわーっとしがみついて、かぶさってきました。それで私は男の先生の様に強くなって「待て!動くな!」と言って逃げ場を探しました。二階の端の教室で近くに階段があったんですが、階段が途中で折れて宙ぶらりんになっていました。「ここはダメだ!あっちから逃げろ!」と皆逃がしたんです。だけど、まだ教室に残っている人がいます。大きな声で「まだ残っている!誰だ、そこにいるのは!早く逃げんか!」と言っても動きません。様子を見に近くに寄ると、もう、誰だか分からないくらい(人間の)形が崩れていたんです。叩き潰されていたんですね。女の子が二人。その前に、私は「時間によって、早く助け出したことによって、命を救えるのもいるんじゃないか」と思いました。やはりそれは、戦争を体験した自分だったから考えたかもしれません。だから、早く、早く、一分でも早く、時間が無い、と心の中でそればかり叫んでいました。突っ込んだジェット機のエンジン部分に寄りかかっている子がいたので、「あなた誰?」顔を向かせたら、こっちを見て「あ、先生…」とつぶやいてバタッと気を失いました。「ミエコだ!」見ると、隣にもさっき私がミルクをつごうとした男の子がいます。どうしよう、時間だがどうしよう。と言ってるうちに、ぱっぱっぱっと上がってきた高校生がいました。私が中学校で教えた子だったんです。その子が「先生!この子まだ体温があります!」その子をお願いね、とその男の子を連れて行きました。ミエコはエンジンに寄りかかって動かない、向こうにいる子は誰だか分からない。時間の問題だ!と思って、ミエコを引っ張りました。私と同じくらい大きい子で、おまけに、机も全部片側に寄っています。机を一つ一つ寄せてはミエコを引っ張り出し、寄せては引っ張り出し、教室の入口まで引きずり出しました。ちょうど男の人が上がってきたので「お願いします!」と預けました。
その前にちょっと話忘れた部分がありました。
皆が逃げた後の教室を見渡すと、四人いました。これ私一人で助けると思ったら間違いだと思って、二階へ降りて、職員室の所にいきました。職員室の右手の方が二年生の教室。そこが、かやぶき校舎だったので燃えているんです。ボウボウ燃えて、髪の毛も洋服も燃えて泣きながら出てきた女の子がいます。火を消そうと思って私は手で火をはたきました。するとその子の背中の皮がズルズルむけて、私の手についたんです。「あ、これはいけない!」と思ってすぐその子を抱いて「誰かいませんかー!誰かいませんかー!」と言って職員室の所に走って行ったら、一旦逃げたイハタケという女の先生が何かで戻ってきたんです。丁度、その先生が戻ってきたので「先生、お願いします!」と私が抱いていた女の子を預けました。「私の所、まだいますから!」とその先生に言って、他に誰か連れて行こうと見たら、父兄が学校に向かってどんどん来るんです。それで一番真っ先に来た男の人に真正面から胸に飛び込んで「お願いします!私の教室にまだ子どもがいます!助けて下さい!」としがみついたら、すぐに地面に投げ捨てられました。その人は、名前を呼びながら燃えている二年生の教室に走っていきました。立ち上がった時にまた若い男の人が来たからその人にも同じように抱きついて、同じように、「教室にいます、助けて下さい」。同じように投げ捨てられました。二度も投げ捨てられて、あぁ、自分の子どもは自分でしか助けられないんだと私は分かりました。それで自分の教室に急いで向かいました。階段上がって自分の教室に来て見渡し、「さて、どうしよう」と思った所で、後ろから一人、父兄が入ってきました。お母さんでした。お母さんは、一人の子を抱いて、「先生、アケミです!」そこでお母さんとひとしきり泣いて、「お願いしますね、お母さん。私まだいますから」まだ教室には三人います。
後でアケミさんのお母さんに聞いたんです。その日は用事があって石川からバスで具志川の安慶田に行ったらしいです。バスで行ったのに、安慶田のバス停で降りて、用事はすませず、すぐ反対側のバス停から石川に戻ってきたというんです。そして、石川の町に入ったと思ったら、ジェット機が宮森小学校の方に向かっていくのを見たんです。「あ、あれは宮森だ!」というのでお母さんはすぐに駆けつけたというんです。ですから、来るのがとても早かったです。お母さんは自分の子を着物で分かったそうです。教室に女の子が二人いたんですが、誰だか分からない程痛めつけられていたと言いましたね。二人とも、着物で分かったんです。私はミエコを引っ張り出して「あと誰がいるんだろう、どこに行ったんだろう、誰が怪我をしたんだろう。」と思いながら戻って。気が付くと、私は肩を打っていたみたいで動かないんです。痛くて痛くてかばっていたら、米兵に見つかって、米兵は来るのが早かったです。
米兵に病院に引っ張られて行きました。中部病院に行きましたら、二年生がほとんど火傷を負っていて、裸にされて一人一人ベッドに入れられて、泣き叫んでいました。病院では、学校長も市長も誰も入れません。自分が患者だったから、生徒たちのいるベッドの所まで行けたんです。そしたら、向こうの人が「学校の先生ですか?でしたら、子ども達に顔を見せて下さい。」とおっしゃるものですから、私は自分も包帯巻いたまま、やけどを負って裸にされているもんですから余計に泣いて、ほとんど男の子が多かったです。裸になって二十人位います。その中に行って、「ホラ、先生も怪我して来たよ」と言って顔を見せに周ったら、皆安心して声が小さくなってきました。その内私は手当てが終わって、帰宅許可が出たので家に帰りました。
帰ると家に人がいっぱい来ているんです。こっちを見てワーッと笑う人と、泣く人がいるんです。聞くと、私が死んだとラジオで放送されて、「私達、香典持って来たんだよ!」とお仏壇に供える香典を持っていました。こういうことがあって、私は一度死んだことになっています。
とにかく、短時間であれだけ激しい事が起きたということは、とても怖い事です。基地が側にある間、安心できません。これをどこかに移してもらうか、無くすかしないと、私達はずっとこれと戦わないといけないなと思っています。本当に他人事ではない。そういう風にして私はまた生き返って皆のためにやらないといけないなと思います。

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