わたしたちの沖縄市 3年・4年
259/290

程てい順じゅん則そくは、沖おき縄なわ教きょう育いくの発はつてんに力ちからをつくした人じん物ぶつです。中ちゅう国ごくから持もち帰かえった教きょう訓くん書しょである「六りく愉ゆ衍えん義ぎ」をほんやくしました。その中なかにある六むっつの大たい切せつな教おしえを、当とう時じの琉りゅう球きゅうだけでなく、全ぜん国こくへと広ひろめました。程てい順じゅん則そく(名な護ご親ウェー方カタ)〈1663~1734年ねん〉宮みや良ら長ちょう包ほうは、沖おき縄なわ音おん楽がく教きょう育いくの発はってんに力ちからをつくした人じん物ぶつです。八や重え山やまの石いし垣がき町ちょう(げんざいの石いし垣がき市し)生うまれで、沖おき縄なわ師し範はん学がっ校こう卒そつ業ぎょう後ごに教きょう師しとなり、音おん楽がく教きょう育いくに力ちからを入いれ、音おん楽がくがいかに人にん間げん教きょう育いくに大たい切せつかを説ときました。長ちょう包ほうが残のこした音おん楽がくには、「えんどうの花はな」「安あ里ざと屋やユンタ」「汗アシ水ミジ節ぶし」などがあり、げんざいでも、多おおくの人ひとびと々に歌うたい親したしまれています。長ちょう包ほうは、今いまもなお「沖おき縄なわ音おん楽がく界かいの父ちち」「沖おき縄なわのフォスター」とよばれて、愛あいされ続つづけています。宮みや良ら長ちょう包ほう〈1883~1939年ねん〉教きょう育いく者しゃで「ライオン先せん生せい」とよばれ、親したしまれていました。儀ぎ間ま真しん常じょう〈1557~1644年ねん〉儀ぎ間ま真しん常じょうは、沖おき縄なわ産さん業ぎょうの発はつてんに力ちからをつくした人じん物ぶつです。1605年ねんに野の国ぐに総そう管かんという人じん物ぶつが中ちゅう国ごくから持もち帰かえったイモを沖おき縄なわ中じゅうに広ひろめました。また、もめんのさいばい方ほう法ほうやもめん織おりを成せい功こうさせて、もめんの着き物ものを人ひとびと々に広ひろめました。さらには、さとうきびを使つかった黒くろざとうも広ひろめ、人ひとびと々のくらしをゆたかにすることができました。げんざいでも、さとうきびを使つかった黒くろざとうづくりは、沖おき縄なわの大たい切せつな産さん業ぎょうのひとつです。志し喜き屋や孝こう信しん〈1884~1955年ねん〉志し喜き屋や孝こう信しんは、戦せん後ご沖おき縄なわの復ふっこうや教きょう育いくの発はってんに力ちからをつくした人じん物ぶつ1718年ねん、沖おき縄なわで初はじめての学がっ校こう「明めい倫りん堂どう」をつくり、1728年ねんには、名な護ご間ま切ぎりの総そう地じ頭とう(今いまの市し長ちょう)となり、そのこう績せきや人じんとくから名な護ご聖せい人じんともよばれました。です。1936年ねん、私し立りつ「開かい南なん中ちゅうがっこう学校」をつくりました。きびしくも愛あいのある1946年ねんには、沖おき縄なわ県けん人じんとしてはじめての知ち事じとなり、戦せん後ご沖おき縄なわの復ふっこうに力ちからをつくしました。その後ご1955年ねん、琉りゅう球きゅう大だい学がくの初しょ代だい学がく長ちょうをつとめ、沖おき縄なわの教きょう育いく、人じん材ざい育いく成せいにつくしました。おきつながる・ひろがる▶ 沖なわ縄じん人ぶつ物でん伝119☆沖おき縄なわの発はってんにつくした人ひとびと々☆「島しまマス」さんのほかにも、沖おき縄なわの発はってんにつくした人じん物ぶつが多おおくいます。しりょう

元のページ  ../index.html#259

このブックを見る