わたしたちの沖縄市 3年・4年
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男だん子しも女じょ子しもみんないっしょの生せい活かつです。長ながい間あいだくらすことで色いろ々いろなトラブルが出でてきました。島しまマスは、子こどもたちに勉べん強きょうを教おしえ、生せい活かつのすべての世せ話わをしました。子こどもたちは、島しまマスのことを「おかあ先せん生せい(お母かあさん先せん生せい)」とよんでしたっていました。こマスさんの子こころい「チムグリサンの心ご)し子や屋●↑ ■イ コンセット小ようよう用用ごご語語かいかい解解せつせつ説説じょでのコザ女かいホーム開じま島つよう強まわりの人きょうん協しょ所ねんしき式(1953年がつ7月してくれたんだよ。へい兵うご々を動ひとびとりょく力おもどもたちを思」がかし、たくさ113コンセット小ご屋やがたぐんべいのかまぼこ型軍米しゃしかし、また新あらたな問もん題だいが起おこりました。保ほ護ご所しょでは、そこで、島しまマスは、女じょ子しだけのホームをつくろうと米べい軍ぐんからコンセット小ご屋やをもらい、多おおくの人ひとびと々からぼ金きんをつのりました。そして、このような努ど力りょくが実みを結むすび、1953(昭しょう和わ28)年ねん「コザ女じょ子しホーム」ができました。ホームでは「女じょ性せいも社しゃ会かいの一いち員いんとして働はたらき、自じ立りつしていくことが大たい切せつ」という島しまマスの考かんがえから、勉べん強きょうだけではなく、さいほうやぶよう、バレエ、お花はな、お茶ちゃ、スポーツと自じ分ぶんをみがくための授じゅ業ぎょうも取とり入いれました。

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