わたしたちの沖縄市 3年・4年
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保ほ護ご所しょでは、マスや多おおくの人ひとたちに見み守まもられ、子こどもたちは明あかるい笑え顔がおを取とりもどしていきました。 島子ぐ具かや家ふ布あし合こマスが子ここ)ご護ほ保じ児ざ差●↑ ■ア 胡胡こ差ざ児じ童どう保ほ護ご所しょとコザ女じょ子しホームのせつ立りつ島しまマスが受うけ入いれる子こどもたちはどんどんふえ、いつしか島しまマスの家いえは大だい家か族ぞくになっていました。自じ分ぶんが生いきていくだけでもせいいっぱいだった中なかで、たくさんの子こどもたちを育そだてるには、多おおくのお金かねがかかりました。島しまマスは、自じ分ぶんの生せい活かつも苦くるしかったのですが、子こどもたちのために、安あん心しんして生せい活かつできるしせつをつくろうと考かんがえました。そして、家か族ぞくの協きょう力りょくやえん助じょ、島しまマスの活かつ動どうに心こころを動うごかされた多おおくの人ひとびと々の協きょう力りょくにより、ついに1952(昭しょう和わ27)年ねん、胡こ差ざ児じ童どう保ほ護ご所しょをつくりました。調しらべるしましま島島しまマスは、どもたちのためにどんなことをしてきたのかな。おう。どう童ねんしょ所(1952年ここマスは、マスは、子子しょ所じん人みんい民ちちは知地ふるの古ごとほかの土護保かヤンバルか原り、山家ら借うけ、コザまでをゆずり受はこんでもらったんだよ。運じちいえせいこうは、地事いきの青の工家てつだねんかいが手伝年会い、アメリぐんからもきふをもらっカ軍もうなどをそて、毛ろえたんだよ。たくさんのおかげでの人かんせい成完きょう々の協したんだよ。りょく力ひとびと112まなびのポイントしま島どもたち のために、どのよう なことをしてきたの はなか話どもどもなになにたちのために、何何たちのために、しらしらをしたのかをしたのか調調べまべましょう。しょう。

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