戦せん争そうが終おわって、街まちの様よう子すもすっかり変かわりました。沖おき縄なわは、アメリカ軍ぐんの占せん領りょう下かにおかれ、ふべんな生せい活かつを送おくらなければなりませんでした。島しまマスの夫おっとの故こ郷きょう・越ごえ来く村むらは、「コザ」す子ふ付おが終は、こうぐん●↑ ■ア 行軍調しらべるせんせん戦戦そうそう争争おきおきろのろの沖沖しらしらいていて調調おおわったこわったこがが終終ようようなわなわ縄縄のの様様につにつべましょう。べましょう。すす子子そう争なわ縄せん 戦おきの沖すようどのような様子だったのかな。ねんへい(1950年するアメリカ兵だい代じゅう コザ十ろじ路字基き地ちの街まちコザきん近108まなびのポイントまちちきはなし「基コザ」の話地の街そうよせんおが終争を読んで、戦おきなわわったあとの沖縄のようはなあし合について話様おう。)わったころとよばれ、基き地ちの街まちになっていました。コザには大おおきな嘉か手で納な飛ひ行こう場じょうがつくられ、街まちは、アメリカ兵へいたちでにぎわっています。戦せん争そうで仕し事ごとをなくし、土と地ちを基き地ちに取とられた人ひとびと々が、仕し事ごとを求もとめて沖おき縄なわの各かく地ちからコザにやってきました。街まちには、親おやもなく住すむ家いえもない子こどもたちであふれていました。
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