島しまマスも先せん生せいとして働はたらきました。沖おきなわせん縄戦第だい二次じ世せ界かい大たい戦せん中ちゅうの1945(昭しょう和わ20)年ねん4し月がつ1つい日たち、米べい軍ぐん(アメリカの兵へい隊たい)の沖おき縄なわ島じま上じょう陸りくにより、沖おき縄なわではげしい戦たたかいがおこりました。言こと葉ばでは、とても言いい表あらわすことのできないすさまじい戦せん闘とうがくりひろげられたのです。沖おき縄なわのまちや野の山やまは、ばくだんや火かえん放ほうしゃ器きによって、はかいされ焼やきつくされました。戦せん争そうが始はじまると、島しまマスは山ヤン原バルへそ開かいしていました。そして、アメリカ兵へいに見みつかり、ほりょとして「ほりょ収しゅうようじょ容所」に連つれていかれました。そこでは、栄えいようしっちょう養失調とマラリアという病びょう気きで、なくなる人ひとが毎まい日にちのように出でました。沖おき縄なわで起おきたこの戦せん争そうは、沖おき縄なわの人ひとびと々をまきこみ、たくさんのぎせい者しゃを出だしました。まるで、じごくのようなおそろしい光こう景けいがくりひろげられました。それが鉄てつの暴ぼう風ふうと言いわれる「沖おきなわせん縄戦」です。かみつながる・ひろがる▶ デジタル紙し市わ和い居「沖山ヤン原バルいま今そ開かいそうせん争戦子こどもたちの栄えい養ようじょうたいも悪わるく、ち地ぶ部なしょ所不ふえい生せいだったので、よくひふ病びょうにかかりました。島しまマスは、このようなじょうたいの子こどもを見みて心こころをいためていました。す子ご後●↑ ■イ 戦ようよう用用ごご語語かいかい解解せつせつ説説おきなわせんしば芝へい縄戦」 @平なわ縄じま島ほく北おきの沖すくがいを少でのひ害ばべつくするため、別の場へひなんすること。ほりょ収しゅう容よう所じょぐんせん軍戦べいそう争で米にとらえいられ、入れられるしせつ。マラリアげんマラリア原きおて起気でが出かん感ちゅう虫こうで、高びょうこる病ひとて、ほかの人せんがっの学こう校ようの様おきちゃんねる沖なわ縄107によっねつ熱にもせんする。いき1945年ねん8月がつごろになると、ほりょ収しゅうようじょ容所の中なかで学がっ校こうが始はじまりました。ほとんどの学がっ校こうは焼やけてしまったので、青あお空ぞらの下したで学まなびました。
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