わたしたちの沖縄市 3年・4年
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万ばん国こく津しん梁りょうの鐘かね尚しょう泰たい久きゅう:1415~1460年ねん(第だい一いち尚しょう氏し)琉りゅう球きゅうをとう一いつした尚しょう巴は志し王おう(第だい一いち尚しょう氏し)の子こどもである尚しょう泰たい久きゅうは、越ごえ来くを治おさめ「越ごえ来く王おう子じ」とよばれていました。歴れき史し的てき人じん物ぶつと伝でん統とう工こう芸げい品ひん尚しょう泰たい久きゅうは中なか城ぐすく城じょうの城じょう主しゅ・護ご佐さ丸まるのむすめと結けっこんし、その後ご、六ろく代だい目めの「琉りゅう球きゅう国こく王おう」となりました。(1454年ねん)。琉りゅう球きゅう王おう国こくまえねん前およそ600年わみっは三に分国こく王おうになった尚しょう泰たい久きゅうは首しゅ里りにうつり仏ぶっ教きょうをうやまい、1458年ねんには万ばん国こく津しん梁りょうの鐘かねをつくらせて首しゅ里り城じょう正せいでんにかけさせました。し市か化し市しの史し氏つづめごろまで続り里かえが書ようよう用用ようよう用用ごご語語かいかい解解せつせつ説説ごご語語かいかい解解せつせつ説説りゅう、琉きゅうかれ球いつていて、それをとう一ししはしょうです。それ志たのが尚巴つづめだい目いこう、七代まで続いししょういちだい一尚た(第氏)。えんしょうごその後円、尚めいをつくり、明くにつの国だいが第じ治しょう二尚のはじきました。じょう城せい正しゅ首がい外きゅう球かいが海きょう教なわおき縄沖みを見りつ立けんきな県たことがあるけど、いてあるのかね鐘かどんなことが書だろう。おきつながる・ひろがる▶ 「沖なわ縄せき跡ポータルサイト Kのう悩たい泰きゅうく「苦久しょうつながる・ひろがる▶ 尚サウダーヂなつみさんは、琉りゅう球きゅう王おう国こく時じ代だいに今いまの沖おき縄なわ市しに住すんでいた人じん物ぶつを調しらべました。かん館ぶつ物はく博おおで大ぶんと文ざい財おき」沖なわ縄かん観こう光おうの王りゅう」 琉きゅう球コザOZA WウェブEB94でんにかけられていたとされます。りゅうじとうの琉の当時くにち国や地いきとさかんにこう交えきしていたこと、まぶっをさかんにしよた仏かんがうとする考かれています。しりょう

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