今月の人

他人の喜びを自分の活力に、そして更に向上を

204.友寄昭子さん(53)

 「コザパイロットクラブ」。聞きなれない名称かもしれない。一九二一年にアメリカのジョージア州で友情と奉仕による、地域密着型の奉仕団体として誕生したのがパイロットインターナショナル。その沖縄支部の名称だ。同クラブは平和の水先案内人になろうという理想を掲げて活動している。今月は同クラブの会長、友寄さんに現在の活動状況や今後の取り組みなどを聞いてみた。

 友寄さんが勤務する会社の事務所を訪ねた。同クラブのユニフォーム、グリーンのジャケット姿と笑顔で出迎えてくれた。濃いグリーンの鮮やかさと本人の明るさが印象的な初対面だった。
 開口一番「本当に私でいいの?」「充分です」。「趣味は?」「仕事です」。目が笑っている。そんな、やり取りから始まった。気さくで飾らない言葉で、はっきりと意見を言う方である。
 友寄さんが同クラブへ入会したのは九年前、父がライオンズクラブへ所属し、ボランティアなど地域活動をやっているのを子供心に見ていた。「精神的、金銭的(少し)に余裕が出てきたら奉仕活動をやってみたいと思っていたんです」。そんな矢先に入会の誘いがあり、軽い気持ちでの参加だった。それから、会計、書記、副会長などを歴任し、会長の座へ。
 同団体は現在、世界に四百五十のクラブがあり、日本には五十クラブがある。コザパイロットも今年で一八年目を迎えた。コザパイロットの活動について聞いてみた。「私達のメンバーも他のクラブと同様、奉仕の精神を踏まえながら、国際交流の輪を広げています。毎年行っているのがチャリティーウォークとチャリティーパーティー、チャリティーゴルフなどで、その収益を脳関連障害者や青少年健全育成に役立ててもらおうと寄付活動を行っています。また、今年は同会員のいる沖縄市など三市、二村へ車いすの寄贈を行いました」。
 友寄さん自身も高齢者の介護などを手伝う仕事に従事している。「仕事もボランティアも自分達に何ができるかを模索しながら動き、その結果が人の喜びに繋がればうれしいですね」さらに「人生が素晴らしいものであることを享受できる力を蓄え、人を助け、人をそしらず、また防げず、人を積極的に称えることのできる人間になれるように自身も、クラブも精進していきたいですね」と個人の信条を話した。
 会長としては「メンバーから学び、育てられて日々うれしい、これからも楽しく、幸せな気持ちで全てのことに感謝し、楽天的に突き進んでいきたい」と結び、気楽な会への入会も呼びかけた。



▼戦後文化シアター 今月のヒストリート

今月のヒストリート
当時の子どもたちは、危険な不発弾
を玩具代わりにして遊んでいた。

市史編集担当/
TEL:939-1212(内線2273)
ヒストリート、しーぶんかん/
TEL:929-2922
 終戦直後の沖縄はいたる所に不発弾が散在。屋敷内や畑にさえゴロゴロしていたため、不発弾は子どもの玩具として普通に使われていました。手榴弾は信管を抜いたり、海に投げ込み爆発させて遊びました。また銃弾から抜き取った火薬に火をつけて燃やす遊びが流行。しかし、時には暴発して死んだり、手足を失った者も…。一九五五年四月、本市比屋根でも子どもたちが拾った手榴弾をいじって爆発し、六人が死傷する痛ましい事故がありました。
 さて今年は不発弾に関する事件・事故が相次ぎ、世間の耳目(じもく)を集めました。小学生による学校への不発弾持ち込み、観光中の大学生による旅客機や離島への不発弾持ち込み。糸満市では工事中の重機が不発弾に触れて爆発する事故が起き、二人の重軽傷者が出ました。更に米軍基地内(キャンプ・シュワブ)でも処理準備中の不発弾が爆発し、兵士三人が死傷。不発弾爆発事故といえば、七四年三月に那覇市小禄の幼稚園で起きた爆発事故が、幼児を含む多数の死傷者を出した大惨事として県民の記憶に残っています。
 このように大変危険な不発弾ですが、第二次大戦で激しい地上戦が繰り広げられた沖縄には、今なお二五〇〇トンの不発弾が埋没し、その処理に今後八〇年はかかると言われています。