今月の人

フラを人生の パートナーとして

203.屋宜 恒一さん (56)

 多様化する福祉ニーズに対して、社会奉仕の精神で常に地域住民の立場に立ち、市民の相談に応じたり、自立した生活が送れるように支援を行っていく組織に「沖縄市民生委員・児童委員協議会」がある。一昨年、同協議会の会長へ就任したのが屋宜さん。現在、東奔西走中で多忙の屋宜さんに活動状況や会長としての意気込みなどを聞いてみた。

 沖縄市には現在、百四十九人の民生委員・児童委員がいる。委員の連帯と親睦を図りながら、組織の強化や活動の充実など市内全域の各ブロックの民生協がスムーズに運営できるように、同協議会(民児協と略)をまとめていくのが会長の任務である。
 その重責の役を任せられたのが屋宜さんだ。
 屋宜さんが民生委員の職に就いたのは平成十二年、先輩の民生委員から声をかけられたのがきっかけ「これまで、日中友好運動や日比親善原爆問題などに携わっていて、ふと振り返ると地域のことは何もやってない。これではいけないと反省したんです」と目を細める。
 屋宜さんは、沖縄フィリピン協会会長や沖縄原爆展を成功させる会事務局長、安慶田土地区画整理推進協会長、保護司などの任務に就いている。
 民児協としての活動状況は災害時一人も見逃さない運動や子育てサロンへの取り組み、
老人施設慰問、児童福祉や生活福祉など七専門部会への取り組み、市社会福祉大会、赤い羽根募金運動、地域の相談役など幅広い。
 直接、相談者と対面し、難題をぶつけられるケースも多い民生委員だが「福祉などニーズが多様化する中、現在、市の民生委員一人当たりの担当世帯数が平均四百世帯を超え、負担が大きく十分な見守り、見回りができない。それによる民生委員の意欲の喪失など地域福祉の後退につながりかねない。欠員の補充、育成にも困難をきたしているのが現状」と課題を話し、深刻な問題と訴える。
 続けて「福祉のまちづくりはソフト面だけではなく、高齢者(介護)、住居、道路、公園の整備などハード面も行政は考えてほしい」と付け加えた。
 趣味は旅行、語学、地鶏などの飼育という屋宜さん。座右の銘は「眉を横たえて冷ややかに千夫の指すに対し首を附して甘んじて嬬子の牛となる」(目を怒らせて万人の非難には冷然とたちむかうが、うつむいて子どものために喜んで遊び相手になる)と訳するんだと言う。その言葉を信念に信頼される民生委員・児童委員を目指し多忙な日々に向かう。



▼戦後文化シアター 今月のヒストリート

今月のヒストリート
高等弁務官専用車に
ついていた米軍の中将旗

市史編集担当/
TEL:939-1212(内線2273)
ヒストリート、しーぶんかん/
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 写真は米軍中将の階級を表す三つ星の旗です。
 この旗は高等弁務官専用車に弁務官を表す旗と共に付けられていました。
 高等弁務官とは一九五七(昭和三二)年七月に出された大統領行政命令により制定された米国統治下の沖縄における最高責任者のことで、当時の沖縄では絶対的な権限を持つ存在でした。高等弁務官制は七二年の復帰まで続き六人の中将たちが歴任。弁務官の統治姿勢は沖縄の人々の生活に多大な影響を及ぼしてきました。
 コザと弁務官との関わりを当時の新聞から拾ってみると、五九年五月、二代目ブース中将がモデル衛生部落に指定された中の町へ側溝排水施設費として一万一千ドルを寄付、六九年八月にはランパート中将が全国高校総体ボクシングで初優勝した中央高校へ祝電を送るなど住民との関わりもありました。しかし、七〇年のコザ暴動直後に出した弁務官声明に毒ガス移送中止をにおわせ、支配者であることを顕わにしています。
 写真の中将旗はまさに復帰直前の七二年五月上旬に蒐集されたもの。旗をつけていた専用車は最後の高等弁務官ランパート中将が利用したものでした。