今月の人

聴診器を当て樹木と会話をする

199.亀島克夫さん(58)

 「樹木医」という呼び名がある。 まだ、聞きなれない言葉だろうか。呼んで字のごとく「木」の医者である。世の中にまだ十分に認知されてないところもあり、その活動もあまり知られてないように思う。
現在、沖縄県には十四人の樹木医の方々がいる。県内を北から南へと走り回る、離島へも飛ぶ。今、樹木に関して県内で、引っ張りだこの男。 県樹木医支部長の亀島さんに樹木へ対する想い、活動ぶりを聞いた。

 くすの木通りの立会いの合間に、やっと会えた。忙しい方である。「年中、あっちこっち飛び回っていますよ。金にはならないけれどね」と笑う。
 亀島さんが樹木の仕事に携わったのは、二十四年前、兄が経営していた造園業の仕事を手伝ったのがきっかけ。いつのまにか、樹木の世界へと入っていった。はて、樹木医とは何だろう。端的に話すと「樹木保護、ひいては自然保護における日常的活動での理念的・技術的指導などで高度な知識・技術を持ち、環境緑化全般の指導者かな」。ところで、植物は音を発することもなく人間のように言葉を操ることも出来ないが、治療が出来るのだろうか?「多くの研究者によって、植物の生理、生態などが解き明かされてきた。こうした研究成果に基づいて、樹木を観察し、どの部分に問題が起きているのかを判断し、原因を科学的に判定していくのが治療なんですよ」。続けて「陸上に進出した植物が四億年以上かけて獲得してきたすべての機能や彼らの世界構想が解っているわけでもないので、その診断は難儀ですよ」とニヤリ。
 現在、亀島さんは、平成十年に設立した会社グリーンスタッフの代表取締役。樹木医の外、松保護士、一級造園施工管理技士の資格を持っている。各学校での講師や林業指導、緑化指導員としても多忙だ。スタッフは九人、それぞれが土木や造園施工などの資格を取得している。「各自が個々の部署で活動しているが、チームを組んで動くこともある。気心の知れた仲間達といった感じです」と目を細める。
 唐突だが人生観について聞いてみた「ゆったりだね。自分のペースを崩さずゆったり生きる。人生は前と後との継続みたいなものでしょう。解決もできないし、結果を見ることも出来ない。真実なんて解らないよ。だから、今を自由人として闊歩したいね」とぶれない言葉で語った。
 それから「植物も命を宿し、日々一生懸命生きている。人間は彼らが四億年以上かけて作り上げた世界で生かされていることを忘れず、彼らが成育する環境と人間の生活するミスマッチを減らし、いかに共生するかを考え、植物の保護、保全を行っていくべきであると切に思うね」と眼鏡の奥の澄んだ目がきらりと光った。
 植物と対峙することはなかなか無い。まして、話すことも、心のゆとりのせいなのだろうか。何かを教えられた取材であった。


▼戦後文化シアター 今月のヒストリート


コザ沖映館(1960年代初期)
市史編集担当/
TEL:939-1212(内線2273)
ヒストリート、しーぶんかん/
TEL:929-2922
 企画展「えいがかん」は先月末で終了しましたが、十二月一日は「映画の日」ということで、今月号も市内における映画興行界の話を続けたいと思います。
 かつて、コザ十字路一帯は五つの映画館と一つの劇場が集中していた興行の激戦区でした。
 戦後、コザ十字路一帯は家々が立ち並んで都市化し、発展していきました。その様子を見て、嘉間良にあった「自由劇場」が安慶田に移転してきます。また、照屋の新開地には、「第一セントラル琉映館」と「十字路オリオン館」が出現。映画館が建設された周辺には家並みが拡がり、人口が増えて様々な商売が繁昌し、興行施設はその一帯を都市化する先駆者的役割を果たしました。コザ十字路にはその後も「十字路国映館」、「コザ沖映館(後にコザロキシー館となる)」、「コザ琉映館」が建設されていきます。
  一九六○年代にはテレビ台頭やレジャーブームの影響による映画興行界の斜陽化の時期が訪れましたが、それを乗り切り、八○年代半ばまでコザ十字路には四つの映画館が残っていました。しかし、ビデオの普及などの影響で三館が姿を消し、現在は一館のみが営業を続けています。