更新日:2022年3月1日

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3つの願い

「3つの願い」
これは、当時16歳で鉄血勤皇隊として戦場に駆り出され、沖縄戦を生き残った石川榮喜さんの戦争体験を基に創作された物語です。

沖縄戦の2年前の春、僕は憧れであった制服制帽に身を包み、県立第一中学校に入学しました。当時の中学というのは、現在の高校にあたります。
あのころは、男女で学校も別れていて、小学校でも男女は別々の教室で勉強していました。那覇市内を走る軽便鉄道の駅のホームでは、女学校に通う地元の同級生を見かけましたが、話しかけることは禁じられていました。
入学当時は、街なかで日本軍人を見かけることはなく、戦時体制下でいろいろなものが制限されてはいましたが、戦争の雰囲気はそれほど感じられませんでした。

そんな平和な時間もつかの間、入学して1、2カ月後には、憧れだった学生服・学生帽から軍人と同じ戦闘服・戦闘帽に切替が行われました。
また、この頃から平穏なこの沖縄に、輸送船で日本軍人がどんどん上陸してきました。それまでは、見かけることがなかった日本軍人が、那覇・首里に駐屯するようになってからは街の雰囲気も空気もだいぶ変わり、僕の通う第一中学校にも球(たま)部隊が寝起きをして生活するようになりました。
そして、米軍が沖縄本島に上陸する3日前、僕の通う中学校の生徒たちは、県立一中鉄血勤皇隊として日本軍に召集されました。

1945年4月1日、沖縄本島中部の西海岸から米軍が上陸します。
上陸後しばらくは日本軍の抵抗もほとんどなく、米軍は数日で東海岸まで達し、沖縄本島を南北に分断して進軍しました。米軍が現在の宜野湾市と浦添市の境界辺りにある嘉数という地域まで攻め込んだとき、そこで初めて日本軍の反撃がはじまります。その反撃によって日本軍・米軍ともに多くの死傷者を出しました。
僕は、自分の住んでいる首里に米軍が現れるまでは、教育で培われた精神によって「1日でも早く目の前に現れろ!やっつけてやる!」ということを毎日のように思っていました。しかし、米軍が那覇・首里に攻め込んでからは、そのような考えは吹っ飛びました。実際に砲弾や銃弾にさらされると、そのような状況ではいられず、今日死ぬのか、今日生きられるのか、そのことしか頭にありませんでした。

豊見城の壕に避難している時は、ごはんも煮炊きして食べていましたが、豊見城から追い払われ、現在の糸満市、真壁という地域に追いやられてからは、煮たものを食べることができなくなりました。
壕の中には何十人という人間が追い込まれているので、手足を伸ばして寝る事ができず膝を組んで昼も夜も寝ていました。
夜は畑へ行き、サトウキビやキャベツを食べ栄養を取っていました。

島尻における日本軍人や住民が一番苦しんだのは「飲み水」でした。
ひもじさは耐えることができてものどの渇きは我慢することができません。
しかし、飲み水欲しさに壕から出ると一瞬のうちに殺されてしまいます。
澄んだ水を飲むことができない、水を汲みに行くこともできませんでした。
当時は雨がよく降っていましたので、僕たちは壕の入り口にできた水たまりに口を突っ込んで、がぶがぶ泥水を飲んでのどの渇きを潤し、生き延びました。

島尻で逃げ延びていく道々には体が2つに切断されたり、頭がふっとんだり、片腕がなかったりする住民の死体をたくさん見ました。
とくに東風平の十字路では集団で逃げている途中に集中攻撃を受けたと思われる若いお母さん、子ども達の死体を見ました。その光景は、まさに地獄絵図でした。
このようなことが島尻のあちらこちらであったのではないかと思います。
日に日に米軍が迫ってき、死を覚悟するようになりました。
このような過酷な状況の中で、毎晩3つのことを願って寝ました。

「もう一度、コップ一杯でいいから澄み切った水を飲みたい」

「手足を伸ばして大の字になって寝たい」

「死ぬときは痛みを感じずに死にたい」

米軍の攻撃が激しくなり、真壁にもとうとういられなくなりました。
僕は同僚とともに摩文仁の丘に逃げました。
摩文仁の丘の海に逃げると、波打ち際は死体でいっぱいでした。
たくさんの死体が海の藻屑のように漂い、死体を両手でかき分けて進みました。
また、摩文仁の波打ち際の岩礁は釘を逆さに立てたように牙をむいており、僕達軍人は革靴を履いていますが、住民は、ほとんどが裸足で、足を血だらけにしながら逃げなければなりませんでした。

当時、学校や軍隊では捕虜になってはいけない、捕まるよりは死を選びなさい、と教えられていました。
そのため勝てないと解っていても逃げ続けていました。
やがて米軍に追い詰められ、もうどうしようもなくなり隠れているとたくさんの住民が米軍に連れられて前を通過するのを見ました。
その中には軍服を着た数名の日本軍人もいたので、僕たちも両手を挙げ米軍の前に出ていき、捕虜となったことで命が助かりました。

戦争が終わり、平和になってあの残酷な出来事から長い年月が経ちました。
戦争が終わっても、ほとんどの家庭には沖縄戦の犠牲者がいて、戦後の厳しい世の中を生き抜いてきました。
「あの残酷な沖縄の戦場のようなことを二度と繰り返させてはいけない」。
僕は今でもそう強く思っています。
「平和を守る」ということをよく聞きます。「平和を守る」と叫ぶだけではなく、行動しなければ平和は守れないと強く思っております。
一人ひとりが平和について考え、行動することが平和に繋がるのではないでしょうか。

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