沖縄市教育委員会 教育部 教育総務課 ご意見・ご要望 過去の質問・回答

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4.教育の沿革

 学校教育の創始は、18世紀の末、那覇(久米村)と首里の村学校、平学校であったが、地方においては、やはり同じ頃から筆算稽古所と呼ばれる地方役人を養成するための教育機関があったと言われている。

 筆算稽古所で教育を受けることができたのは地方役人の子弟たちで、庶民の子弟には開放されなかった。美里間切や越来間切においても当然筆算稽古所で、地方役人の子弟たちが、読書・算術・作文・習字などの教育を受けたであろうが、確かな記録がない。

 1882(明15)年、廃藩置県後の新教育制度として、美里間切に美里小学校、越来間切に越来小学校が開校、これが沖縄市の教育活動の基礎となって今日におよんでいる。

 当時、進んで入学する者はなく、やむなく各村(今の字)の割当で、村から扶持米や手当てを貰って入学する状態であった。年齢も9才から24才ぐらいの者までいて甚だ不揃いであった。因みに、開校当初の生徒は、美里小学校が38名、越来小学校が23名であった。

生徒の集まらないこと、財政上の理由もあって1886(明19)年11月、両校が合併し現在の越来郵便局の裏一帯に美越小学校を設立した。(明21年美越尋常小学校に改称)美越尋常小学校になってから、年の推移と共に生徒も増加し、地域的に通学にも遠過ぎることもあって、1894(明27)年に伊波尋常小学校、1896(明29)年上地分校、大里分校、1914(大3)年宇久田尋常小学校が設立され、間切内の初等教育機関が地域的に整った。1900(明33)年改正小学校令により、小学校が4年制、高等科が4年制になり、小学校が義務制となった。

 1902(明35)年、生徒の増加により校舎が狭くなり、上地分校を越来尋常高等小学校(現在の文化センター北側)、美越尋常小学校の校舎は美里尋常高等小学校、大里分校は美東尋常小学校となった。美里尋常高等小学校は、翌1903(明36)年、校舎の位置が間切の南に偏して適当でなく且つ校舎も狭いとの理由で、知花と登川の中間、弁当馬場の近くに移転した。(現在の美里児童園敷地)

 その後、太平洋戦争による教育の空白(昭18年〜昭20年)があったとはいえ、終戦後いち早く地域住民、親の教育愛、熱意により教育を復興し、戦後の民主教育をスタートさせた。1945(昭20)年、沖縄戦が終わった6月の1ヶ月後の7月、コザ第一小学校(越来小学校)、コザ第二小学校(元室川小学校)、コザ第三小学校(安慶田小学校)が開校している。美里小学校は1946(昭21)年明道区で再建された。間もなく幼稚園も設置された。

 戦火ですべてが灰燼に帰して回復する間もない1948(昭23)年、6・3・3制の学制改革が施行された。また、小学校に併置されていた美里中、越来中(後にコザ中に改称)、美東中がそれぞれ独立していった。

そして、1989(昭64)年1月7日長い昭和の時代が幕を閉じ、新しく平成の時代を迎え1990(平2)年4月市内14番目の小学校として美原小学校が開校し、更には1993(平5)年4月市内15番目の小学校として泡瀬小学校が、市内14・15番目の幼稚園として美原幼稚園・泡瀬幼稚園がそれぞれ開校・開園した。また、1996(平8)年4月市内8番目の中学校として沖縄東中学校が開校した。

 このように、本市の教育も永い年月の間には、幾多の変遷はあったが、今日では幼稚園15園1,375名、小学校15校10,431名、中学校8校4,995名に達している。

 コザ市と美里村が合併し沖縄市になって30年目を迎え、都市化の急速な進展につれて人口も増大し、特に大規模な土地区画整理事業の施行による市街地周辺の人口の急増等により、地域によってはマンモス校が出現している。そのため、これらの解消を図るべく新設校の建設計画を進めている状況にある。その反面、市街地においては児童・生徒の減少により余裕教室も増え、その活用検討を進めている。

 ともあれ、本市は中頭の中心都市として教育文化の向上に益々努め、教育内容の充実が図られている。

 

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