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◆ 広報おきなわ12月号(No.378)

No.2
特集 まちの活性化へ
音楽によるまちづくり
●特集●
音楽のまちの鼓動が聞こえる
音楽産業の振興とまちの活性化
音楽・観光・芸能文化のガイド養成や音楽及び関連産業の人材育成など、音楽ビジネスがスタートする

このまちにはロックやジャズ、民謡など常に新しいサウンドを生み出してきた風土、歴史がある、沖縄市(コザ)のまちで生まれた音楽って何だろう。このまちの音楽の歴史って何だろう。

中の町・ミュージックタウン構想 ●コザの音楽●
歴史 history
島唄のメロディーが流れる。そして、ビンビンにノリのいいロックの音が聞こえてくる。

オキナワンロック発祥の地、島唄のさかんな島、アメリカ人とともにジャズが入ってきたまち。

このまちはチャンプルー文化というフレーズとともにさまざまな文化が混然一体となって不思議な魅力に包まれているまちだ。

沖縄市は芸能のさかんな土地柄でもある。ロック、ジャズ、島唄、ポップ、ラテンから三線、古典舞踊などまち中に芸能が渦巻いている。

米軍とともにやってきたアメリカ音楽
一九五一年の日米講和条約によって沖縄は米軍統治となり、朝鮮戦争によって沖縄の米軍基地はますます強化されていく。この時代、アメリカはジャズの全盛時代で、米軍基地内ではジャズバンドの重要が高まり、たくさんのジャズバンドが生まれた。ウチナーンチュのジャズメンはもちろん、日本本土からもパスポートと楽器をもって多くのジャズメンがやってきた。アメリカ本国からも、ルイ・アームストロング、レイ・チャールズなど錚々たるミュージシャンが来沖し、沖縄のジャズメンと共演している。当時の沖縄のジャズバンドは国際的な水準だったといわれている。
日本のロック界に衝撃を与えたオキナワンロック
ベトナム戦争時代の六十年から七十年代にかけてはロックが主流となり、米軍基地内にもロックバンドが誕生した。前線基地となった沖縄は、特にコザの街はベトナム景気にわき、ベトナム帰還兵が集まるBC通り(現パークアベニュー)やゲート通り(現空港通り)のAサインバーでは、ドル紙幣をドラム缶に詰め込んでいたという。オキナワンロックはこのような状況の中で誕生する。

沖縄のロッカーは、ベトナム戦争で気の荒れた若いアメリカ兵に鍛えられ、その中から「紫」「コンディショングリーン」「キャナビス」「メデューサ」などの優れたバンドが誕生し、日本のロック界に衝撃を与える。

ベトナム戦争が長期化する六十年の後半から七十年代にかけては、反戦ソングなど、いわゆるフォークソングが台頭してくる。七十一年には「沖縄フォーク村」が結成され、村長の佐渡山豊さんが全国区のフォークシンガーとして活躍する。また、七十年に入ると、作曲家の普久原恒勇さんを中心とした沖縄の新しい歌運動がおこり、「芭蕉布」「ゆうなの花」「ふるさとの雨」などの名曲が生まれる。島唄やアメリカ音楽とは一味違ったメロディアスな歌の数々は、普久原メロディーとして多くの人々に親しまれている。

そして、七十年代後半には「喜納昌吉とチャンプルーズ」が「ハイサイおじさん」で衝撃的なデビューを果たし、九十年代に入ると「りんけんバンド」、知名定男プロデュースの「ネーネーズ」がデビューを果たした。
歴史的資質と歴史的皮肉
さらに芸能のメッカは、多くのミュージシャンを生み出してきた。嘉手苅林昌、喜納昌永、登川誠仁らの民謡歌手にディアマンテス、りんけんバンド、喜屋武マリー、さらにロックバンドとしては、コンディショングリーン、紫、マリーwinメデューサ、フォークに関しては佐渡山豊、知念良吉などが県内の一世を風靡する。

島唄の唄者、ロッカー、フォークシンガー、そして今日、沖縄のビッグスリーといわれる喜納昌吉、照屋林賢、ネーネーズ・・・、ほとんどの人がコザで生まれ育ち、コザを拠点に活躍してきた。沖縄は、王朝時代の昔から海外文化を受け入れ、独自の文化を築いてきたという歴史がある。今日の沖縄音楽の有り様を思う時、ウチナーンチュの歴史的資質と、歴史的皮肉ともいうべきあの「あめりか通り」の風景が浮かんでくる。

現在、沖縄市内には十四、十五店のライブハウスと、十店近くの民謡酒場(クラブ)があり、週末は音楽好きで賑わう。また、沖縄市では、ピースフルラブ・ロックフェスティバルをはじめコザ音楽祭(六月九日)、沖縄市音楽市(四月)、フォークの日(四月九日)、三線の日(三月四日)など様々な音楽祭が開催されている。このような音楽的環境の中から、沖縄民謡とポップスを融合させたバンド、日本語と米語を使ったロックバンド、南米三世を中心としたラテンバンドなど、新しい音楽性をもった若い世代が台頭してきた。

コザに根付いた音楽という歴史や文化をふまえて、 胡屋十字路の一角、国道330号と空港通りに隣接する一・一八ヘクタールの場所に「音楽市場(仮称)」が誕生する。いわゆる中の町・ミュージックタウン整備事業。これは昨年三月に国土交通省から事業認可が下りた、中の町A地区第一種市街地再開発事業の一端で、沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業(通称・島田懇談会事業)を活用し、総事業費約七十一億円をかけて整備、地上九階、地下一階のビルを建てようというもの。今月、八月に既存建物の除去工事が始まった。再来年三月に工事完了の予定で、二〇〇七年のオープンを目指している。

中の町・ミュージックタウン構想、あなたの想いは
沖縄市(コザ)を愛する人達に聞いてみた
崎 浜 秀 嗣 さん
(沖縄市観光協会事務局長)
平成3年に市観光協会事務局長に就く。県内一イベントの多い沖縄市を東奔西走の毎日、フットワークの軽さは定評。イベント会場に彼のいない日はない。市の観光・イベントの顔である。
市民が地域特性を知り、市民一人一人が
この地域の特異性をアピールしていこう

「うっそ〜!アメリカみたい」「ほんとに、日本なの」とコザゲート通りライブハウスはしごツアー参加の観光客の第一声だ。パワフルなサウンド、陽気でノリがよく、ヘッドバンキングが生き甲斐の若い米兵たち、コザ生まれの俺でも「あれっ、ここは沖縄」と思ったりする時があるぐらいだ。また、ライブハウスはしごツアーの情報を聞きつけて参加したウチナァーンチュも驚き、歓喜の声を上げ、ウィークディーの疲れを癒す。ストリートファッションのメッカ、点在するスプレーアートにミュージックカフェ・ライブハウス、こんなユニークで楽しく非日常的なストリートを、どれだけの沖縄市民が知り、楽しんでるだろうか。

そんなコザゲート通りの一角に、再開発事業の一環として着工する「音楽市場」は、地域活性化の最後の砦として、沖縄市の浮沈をかけた事業だと思っている。

この事業を成功させるためには、沖縄市民が地域特性を知り、市民一人一人がこの地域の特異性を大いにアピールし、沖縄市を売り出すセールスマン的な役割を担うことが大切だと思う。そして、これまで沖縄市が輩出し、民謡・ロック・沖縄ポップ界をリードしてきたビックアーチストが一堂に会し、「音楽市場」において音楽祭が行われることを期待すると同時に、第二のDA・PUMPの一茶やオレンジレンジ、SOUL・CAMPのような人気アーチストが大勢誕生することを願ってやまない。
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