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◆ 広報おきなわ(bR69)3月号

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忘れがたき思い出のつまった一冊
<155>羽地 良正さん (66)
目の前に一冊の本がある。重みのあるしっかりとしたつくりに、深みのある装丁、つい手に取りたくなる。本のタイトルは「憧憬・子らと歩んだ道」。三十七年の教員生活をまとめた記念誌である。ページをめくると詩やエッセー、各学校で編集発行してきた「学級だより」、教職生活の思い出など、当時の息吹が脈々と綴られている書物である。その本の著者が羽地さん。

今月は羽地さんに登場してもらい、発刊にいたるまでの思いや教職としての信条などを聞いてみた。


一冊の本を手に羽地さん宅を訪ねた。積まれた新品の本、準備中の案内状をかたわらに取材に入った。

まず、本を出版するきっかけについてたずねた。待っていたかのように羽地さんは「平成七年にコザ中学校の校長として赴任し、翌年から保護者向けの学校だより『くすのき』を編集発行したんだ。それをまとめようと思って知人のサムライこと和宇慶文夫さんに相談したのがいきさつだね」それから、とんとん拍子に事は運ぶ、自作の詩も加えよう、感話いいはなしも挿入しよう、子ども達へのメッセージ、学校の資料、想い出の写真等、次々と加えていくうちに総ページ425の堂々たる書物が誕生したのである。

どの学校でも情熱を精いっぱいに傾けてきた羽地さんは、大学卒業後、最初に赴任したのがコザ中学校、それから山内中、越来中など十校を歴任する。その中でもコザ中学校は三度勤める。校長として退任する学校も不思議にコザ中学校だった。そんな三十七年間の教師生活の思いが凝縮されているのがこの一冊の本である。本の中身について詳しく記したいが紙面がない。そこで著書を拝見した知人らの感想を紹介する。「久しぶりに良書に出会った。読みながらうなずき感動を覚える。校長が変われば学校が変わると話しているが、そのことが本から伝わってくる。人間性、教師としての力量、校長としての手腕等が高く評価されたことがわかる」「どのページから読んでも親しみやすい人柄や教師としてのポリシー、情熱を感じる」少しほめすぎているだろうか、いや著書を読めば、誰もがそう感じるはずである。その人となりが素直に文面に出ている、すぐれものの一冊である。

教職生活を振り返り羽地さんは「生徒達と正面から向き合い真剣に話し合う。夢や希望を抱かせる。子供達を生かす教育。私は常にそれらを念頭に突き進んできた。それは今でも間違いではなかったと信じています」ときっぱり。言葉の端々や文章の隅々からも生徒達に対する愛情、やさしさを感じる。余計かもしれないが羽地先生は筆者の中学校の時の恩師である。常に生徒達から親しまれ、情熱的でスポーツマンで努力家だったというイメージがある。あのテレビに出てきそうな先生である。本の出版を喜ぶとともに、先生との縁を誇りに思う一人である。

今後のご活躍を祈る。
戦後文化シアター
ワーナーさんの写真館
左から2番目仲泊氏
ニコッとカメラに収まる紳士淑女。おそらく越来村役場の職員たちであろう。左から二番目のハロー帽の男性は、仲泊良夫氏で、当時の古謝市(コザ市)の助役である。

仲泊氏は与那原町出身で、戦前は「琉球新報」等の記者として、また戦後は雑誌「守礼の光」の編集を手がけている。一方で「琉球歴史」にも造詣が深く、さらに英語に堪能な人物としても知られる。「仲宗根山戸日誌」にも米軍関係者と沖縄各地を訪れている記述があり、その語学力を買われ通訳として同行していたのであろう。終戦直後の一九四六年九月、市制がスタートした。古謝(コザ)市長には泡瀬出身の歯科医中地庸之氏が就任し、前述したように、仲泊氏は助役に選ばれた。当時は難民収容所を中心に市制が敷かれ、他市町村出身の人が首長や議員になるのも珍しいことではなかった。戦禍をくぐりぬけ、沖縄の戦後復興に邁進する笑顔たちが何とも眩しい。
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連絡先:総務課・市史編集担当
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