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◆ 広報おきなわ(No354) 12月号

 

特集・「百年の眠りから甦る
知花花織」

ここが聞きたい知花花織
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表  紙

特 集・百年の眠りから蘇る知花花織
小橋川 順市さん
沖縄市商工振興
委員会委員長
現在、市工芸による街づくり委員長でもあり、又、知花花織復元支援の会の事務局長も努めている。さらに県工業センターの次長でもあり、市はもちろん県内でも工芸にたいしての達人である。
■知花花織復元事業の四つのねらい

平成十二年八月から本市は知花花織復元事業に取り組んでおります。これまで外側から関わってきた応援団の一人として、事業目的等について率直な意見を申し上げますと、最終的には次の四つの事業効果が期待されると思います。一つは「文化遺産の活用」です。二つは「観光資源の開発」です。三つは「職業の開拓」です。四つは「女性の社会的活躍の場の創出」だと思います。かって「美里間切」は現在の石川市から読谷村の一部にまで大きく領域が広がっていました。ご承知の通り石川市には市指定無形文化財「伊波メンサー」があり、読谷村は国指定重要無形文化財「読谷山花織」があります。残念ながら美里間切の中心地には何もありません。いいえ、実は「あった」のです。これまで「気がつかなかった」「知らんふりした」のいづれかだと思います。平成十一年に幸喜新氏の論文「旧美里村における経浮花織技法の調査研究及び復元」(琉球大学院修士論文)がまとめられています。同論文は県内外の研究者から一定の学術的評価が得られています。つまり、「知花花織」は、確かな学問的根拠に基づいて復元していることを申し上げたいのです。そして、この復元を通して「文化遺産を活用した地域おこし事業=地域活性化事業」の推進を声高かに提唱しているのです。勿論、地域住民が自らの歴史文化に関心を寄せ、「この地域に生まれてよかった」と誇れるような環境形成を目論むことが重要だと思います。また、歴史的観光資源に関しては、近隣市町村より乏しい質と量しか保有していないことは衆目の一致するところです。しかし、やがて人材育成の成果が生かされて「知花花織工房」が市内の要所要所にちらほらと設置される頃、「工房めぐり」が楽しい見学旅行に成り得ること請け合いです。さらに、職業の開拓については、先進市町村が明確に示している通りです。家事の合間に主婦たちの就業機会を創出することは極めて有益です。また、県内の人間国宝の半数以上を女性が占めていることは注目する必要があります。近年の織物業は、作家的な活動方法でしか生き残れそうにありません。辛抱強く精進して輝かしい「結果」を獲得できる仕事は女性に有利かと思います。

■知花花織復元事業の経緯

事業の立ち上げができたのは、大きく四つほどの要因があります。一つは、これまで市議会の中で元議員の佐久田朝政氏を中心に行政側と質疑応答が繰り返されていたこと、二つは、幸喜新氏の論文がまとめられたこと、三つは、県の文化及び工芸に関する業務経験を持つ小生が手助けできたこと、四つは、仲宗根健昌氏を中心にボランティア組織の結成ができたこと等であります。勿論、仲宗根正和市長がこの課題を真正面から受けとめてくださったことが最も大きな原動力になったことは申し上げるまでもありません。

■工芸による街おこし事業のねらい

知花花織は文化遺産の一つですが、分類としては工芸です。知花花織復元事業の推進を図りながら、市内に所在する諸々の工芸産業を寄せ集め、まとめて一挙に振興方策に乗せ、その活性化を図りながら最終的には「街おこし事業」として位置づけることで所管の経済文化部の皆さんは知恵を絞ったものと思います。知花花織を中核に添えながら、陶業、小木工業、竹細工業、琉球ガラス業など全ての工芸産業をまとめて支援し、「文化の薫り高い元気な街づくり」を構想したのです。その流れの中で沖縄市工芸産業振興会(親川正治会長)が結成されています。

■今後の課題

一つ、知花花織を速やかに「市指定無形文化財」に位置づけてください。二つ、知花花織は知花城址及び知花焼と三点セットになっています。知花城址を放置しないで速やかに県又は市指定有形文化財として位置づけてください。知花城址の頂上に大型コンクリート製展望台を設置してあるのは文化財破壊でしかありません。三つ、沖縄市の実情に即した個性ある「工芸による街おこし事業振興計画」を策定し、活力に満ちた文化の薫り高い街づくりを実行してください。

比屋根 清一さん
沖縄市観光協会会長
昨年まで市物産振興会の会長を努めていたが今年から観光協会の会長として活躍中である。市の特産品のピーアールなど観光事業に意欲的に取り組んでいる。
十八世紀には、織物としてすでに確立されていたと言われ、戦争やその他の要因で途絶えていた「幻の織物、知花花織」の復元作業が平成十二年から本格的に開始され、関係者のたゆまない努力で、百年の時を経て、みごとに息を吹きかえした。今では復元作業所や研修生の意欲的創作活動により、名刺入、ネクタイ、サマーウェア、テーブルセンター等、様々な商品が製作されるまでになり、沖縄市に新しい特産品(伝統工芸品)が誕生し、大変よろこんでいる。

この知花花織は、沖縄のほとんどの花織が琉球王府への上納品(貢納布)として、厳しい制度の下で作られ、織子の自由な感性で織られることはなく、御図絵という制約があった織物と違い、自由奔放なデザインがまさに、チャンプルー文化の町沖縄市にふさわしい芸術品だと思う。百年の時を経て、復元された見事な芸術品が、アメリカ文化の香りの高い沖縄市から発信出来ることは、夢とロマンにみちあふれて、素敵な事だと思う。

最後に、夏はサマーウェア、冬場はネクタイに!テーブルセンターを結婚式の引出物にと市民一人一人が大いにPRしたいものです。また、沖縄最古の蔵元新里酒造の泡盛用キンチャクを制作し、「悠久のコラボレート」アメリカ文化がもちこんだ刺しゅうとの「チャンプルーなコラボレート」等にも期待したい。

知花花織の歴史

知花花織は、旧美里村知花、登川地域などを中心に、村内に伝わった織物技術のひとつです。
”知花花織“の知花(ちばな)とは、現沖縄市の一地域をさします。沖縄市は一九七四年(昭和四九)にコザ市と美里村が合併しできた市制区です。

しかし、時代をさかのぼるとその歴史は古く、琉球王府時代の一六六六年、越来間切(ごえくまぎり)を分割し置かれたのが美里間切です。

その後一九〇八年(明治四一)村制へと移行し、さらに太平洋戦争後、美里村から石川市が分離した後、先ほど述べた経緯をへて現在の沖縄市が誕生しました。

花織の名称は、これまで俗に「美里花織」(みさとはなおり)と称されてきましたが、調査・研究の結果から、現在では「知花花織」(ちばなはなおり)を名称として使い始めています。知花花織の起源は定かではありませんが、十九世紀後半には技術・技法がすでに定着していたと考えられています。それは、間切調査から判ったことで、一八九八年頃に織られた縫取花織(ぬいとりはなおり)の資料と、一九〇六年に織られた経浮花織(たてうきはなおり)の祭衣裳からです。
知花花織後元作業所で技術を習得する研修生ら、やがて、そこから工芸家が…
知花花織を利用して制作された商品、名刺入れ、サイフ、コースター、テーブルクロスなど

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