特 集 沖縄市民平和の日 戦後70年を振り返る

 第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年、沖縄では住民を巻き込む地上戦が繰り広げられた。「鉄の暴風」と形容される激しい戦闘では、おびただしい数の砲弾や銃弾が飛び交い、住民を含む多くの尊い命が奪われ、穏やかな日常は破壊された。
 戦後、すべてを失いながらも立ち上がり復興した沖縄。その後も環境は目まぐるしく変化し、激動の時代を経て独自の文化を発展させた。
 戦争終結から70年、現在では戦争を知る人も少ない。本号では戦後70年を振り返り、いま一度「平和」について考える。

降伏調印式の碑(嘉手納空軍基地内)
降伏調印式の碑(嘉手納空軍基地内)

対馬丸乗船者 當眞秀夫さんの体験

 京都で生まれ育った當眞秀夫(とうま ひでお)さんは1944(昭和19)年、14歳の夏、沖縄で暮らす祖母に会うため母、妹、2人の弟と共に5人で沖縄を訪れ、夏休みを過ごし、京都に帰るため、8月21日に対馬丸に乗った。
 8月22日の夜、當眞さんは友人と共に蒸し暑い船室を出て、対馬丸の甲板で涼んでいた。甲板の端の方にあるタンクで水を汲んでいると、すさまじい衝撃を受けた。対馬丸が米軍の潜水艦の攻撃を受けたのだ。友人は爆風で吹き飛ばされ、當眞さんも首や腕、足に大けがを負った。対馬丸は合計3発の魚雷を受け、沈没した。甲板にいた當眞さんは、イカダに乗り難を逃れたが、船内にいた家族は船と共に暗い海に沈んだ。
 対馬丸沈没後、當眞さんは那覇の学生5人とイカダで漂流していた。真夏だったが、海上は夜になると震えるほどの寒さだった。漂流2日目、海は荒れ、十数メートルの波にもまれた。3日目の海は穏やかで安堵したのもつかの間、水平線の彼方まで何もない状況のなか、夜になると学生たちが「那覇の灯りが見える。僕の家の灯りも見える」と言い出した。心身ともに疲弊しきっていた彼らは幻覚を見たのだろう。「助けを呼んでくる」と次々と真っ暗な夜の海に飛び込んでいった。大けがを負い疲弊しきっていた當眞さんには、彼らを止めることも、助けることもできなかった。當眞さんを除く全員が海に飛び込んでしまい、彼らが戻ってくることはなかった・・・。
 対馬丸沈没から1週間後の8月29日、もうろうとする當眞さんの目にモクマオウの木と砂浜が映った。當眞さんは奄美大島に漂着し、漁師に助けられた。村に運ばれた當眞さんは回復していったが、奄美大島や付近の島には対馬丸の乗船者と思われる遺体が次々と流れ着いていた。数か月後、奄美大島も空襲を受け、當眞さんはガマに避難した。負傷した足に包帯を巻いてガマにこもっていた當眞さんだったが、あまりのかゆみに耐えかねて包帯をはがしてみると、傷口からウジがわいていた。あわてて包帯と足のウジを洗い流した。
 その後、奄美大島に米軍が上陸することはなく、戦争は終結。當眞さんは生き延びることができたが、家族や友人を失い、心と身体に深い傷を負った。

當眞 秀夫さん 対馬丸生存者。沈没の際に家族を失い、自身も大けがを負う
當眞 秀夫さん
対馬丸生存者。沈没の際に家族を失い、
自身も大けがを負う

1945年4月1日、読谷の浜辺に上陸した米国海兵隊
1945年4月1日、読谷の浜辺に上陸した
米国海兵隊
(沖縄県公文書館提供)

沖縄本島で最初に収容された楚辺の捕虜収容所の住民
沖縄本島で最初に収容された楚辺の
捕虜収容所の住民
(沖縄県公文書館提供)

愛知県の「すずしろ子供会」が中心になって護国寺の境内に建立された小桜の塔(1959年に護国寺から旭ヶ丘公園に移転)
愛知県の「すずしろ子供会」が中心になって
護国寺の境内に建立された小桜の塔
(1959年に護国寺から旭ヶ丘公園に移転)
(沖縄県公文書館提供)

《沖縄戦概要》

1941(昭和16)年

12月8日 日本海軍が真珠湾を攻撃。太平洋戦争が始まる

1944(昭和19)年

3月22日 日本軍が沖縄防衛のため、南西諸島に第32軍創設
7月7日 南西諸島の集団疎開が決まる
8月22日 対馬丸が悪石島付近で撃沈
10月10日 沖縄大空襲
10月29日 第32軍が第1次防衛召集。17歳から45歳までの健全な男子を防衛隊として召集

1945(昭和20)年

1月20日 第32軍が第2次防衛召集。17歳から45歳までのほとんどの男子を召集
3月6日 国民勤労動員令により、沖縄県の15歳から45歳の男女が動員される
3月23日 米軍が沖縄諸島に空襲を開始
3月26日 米軍が慶良間列島に上陸。地上戦が始まる
4月1日 米軍が沖縄本島中部西海岸に上陸
4月5日 米軍が読谷村比謝に軍政府設置
4月7日 米軍が名護に進攻
4月16日 米軍が伊江島に上陸
5月下旬 日本軍が首里から撤退
6月23日 牛島満司令官ら自決。日本軍の組織的抵抗が終わる
7月2日 米軍が琉球作戦の終了を宣言
7月26日 連合軍が対日ポツダム宣言を発表
8月6日 広島に原爆投下
8月9日 長崎に原爆投下
8月14日 ポツダム宣言受諾
8月15日 昭和天皇による終戦の玉音放送
9月2日 ミズーリ号甲板で日本降伏調印
9月7日 旧越来村森根で南西諸島守備軍の降伏調印

戦後の混乱からの復帰を経て

1945(昭和20)年頃
収容所から復興に向けて

戦時中は高原や嘉間良に収容所が設けられ、戦後、人々はこの地から復興に向けて再出発した。
戦時中は高原や嘉間良に収容所が設けられ、戦後、人々はこの地から復興に向けて再出発した。

1970(昭和45)年12月20日
コザ騒動

胡屋で米兵が運転する自動車が沖縄人をはねたことをきっかけに起きた米軍関係車両の焼きうち事件。米国統治下で不当な扱いを受けていた沖縄人が怒りを爆発させ、約80台の車両が焼きうちされた。
胡屋で米兵が運転する自動車が沖縄人をはねたことをきっかけに起きた米軍関係車両の焼きうち事件。米国統治下で不当な扱いを受けていた沖縄人が怒りを爆発させ、約80台の車両が焼きうちされた。(照屋寛則氏提供)

1971(昭和46)年1月13日
知花爆薬庫から毒ガス移送(レッドハット作戦)

知花弾薬庫に毒ガスが貯蔵されていることが1969年に判明。撤去を求める県民大会が頻繁に行われるも、移送先や移送ルートの選定が難航し、移送完了まで2年の月日を要した。第1次移送が1971年1月13日、第2次移送が同年7月15日から9月9日にかけて行われた。
知花弾薬庫に毒ガスが貯蔵されていることが1969年に判明。撤去を求める県民大会が頻繁に行われるも、移送先や移送ルートの選定が難航し、移送完了まで2年の月日を要した。第1次移送が1971年1月13日、第2次移送が同年7月15日から9月9日にかけて行われた。
(沖縄県公文書館提供)

1972(昭和47)年5月15日
沖縄が日本に復帰

戦後、米国による27年の統治を経て沖縄が日本に復帰。
戦後、米国による27年の統治を経て沖縄が日本に復帰。(沖縄県公文書館提供)

1974(昭和49)年4月1日
沖縄市開庁

コザ市と美里村が合併し沖縄市が誕生。沖縄市長職務執行者の大山朝常氏が沖縄市の発足を宣言した。
コザ市と美里村が合併し沖縄市が誕生。沖縄市長職務執行者の大山朝常氏が沖縄市の発足を宣言した。

1985(昭和60)年6月20日
核兵器廃絶平和都市宣言

戦後40年の節目に、当時の桑江朝幸市長が核兵器廃絶平和都市を宣言。
戦後40年の節目に、当時の桑江朝幸市長が核兵器廃絶平和都市を宣言。

1991(平成3)年8月4日
親子平和大使を広島に派遣

親子で平和について学んでもらおうと、中学生と保護者7組を広島に派遣。現在でも、中学生と社会人の平和大使が広島と長崎を毎年交互に訪問し、平和の尊さを学んでいる。
親子で平和について学んでもらおうと、中学生と保護者7組を広島に派遣。現在でも、中学生と社会人の平和大使が広島と長崎を毎年交互に訪問し、平和の尊さを学んでいる。

語り継がれる平和への想い

 沖縄市では平和学習や平和交流を通して戦争の悲惨さ、平和の尊さ、生命の大切さを学び、平和な21世紀を創造する人材育成を目的に、平成大使研修を行っている。
 現在研修中の平成27年度平和大使と、昨年度研修を修了した平成26年度平和大使に、研修で学んだことや平和に対する想いなどを聞いた。

平成27年度沖縄市平和大使 吉本侑生(ゆう)さん(コザ中学校2年生)
平成27年度沖縄市平和大使
吉本侑生(ゆう)さん
(コザ中学校2年生)

平成27年度沖縄市平和大使

平和大使になったきっかけ
 先生に勧められたことがきっかけで、戦争について勉強できるいい機会だと思いました。
平和大使になって学んだこと
終戦の日やアイスバーグ作戦などの話を聞き、昔の沖縄の様子を学びました。戦争はたくさんの人の命を奪う決して起こしてはいけないもの。
今後は、基地についての問題も考えていきたいです。
基地について
 自然を壊したり、戦争のきっかけになったりします。沖縄がベトナムから「悪魔の島」と呼ばれていると聞いたときは衝撃を受けました。そんな物騒な島じゃないのに…。平和が1番だと思いました。
今後学びたいこと
 自然を壊したり、戦争の悲惨さ、どのようなことが行われたのかを学びたいです。戦争と平和について学び、2度と戦争の起こることがないように努力していきたいと思っています。

平成26年度沖縄市平和大使 島袋萌七(もな)さん(元社会人平和大使)
平成26年度沖縄市平和大使
島袋萌七(もな)さん
(元社会人平和大使)

研修で学んだこと、感じたこと
 平和大使の研修を通して、命の大切さや平和の尊さを実感し、「学ぶことの大切さ」を学びとることができました。今になって振り返ると、平和大使になるまでは、戦争や平和について知っているつもりだったのだと思います。平和大使の研修では、常に新しい衝撃、悲しみがあり、学びの連続でした。また、私は沖縄市で生まれ育ちましたが、市内に多くの戦跡があることを知り驚きました。
研修を終えての感想
 戦争については学校でも教わりましたが、原爆について被爆者の生の声を聞くことができたことは貴重な経験です。広島の平和記念資料館で見たものを思い出すと、言葉にならない感情がわいてきて今でも鳥肌が立ちます。研修では貴重な経験をすることができました。チャンスをいただけたことに感謝しています。平和大使の経験は人生に大きな影響を受けました。
現代の平和について
 戦後70年が経ち、戦争を知る人も少なくなっています。これからは平和大使の担う役割が大きくなっていくと思います。私たちの世代がもっと学び、後世に伝えていく必要があります。私は県外に住む知人が多くいるのですが、沖縄に来た際には観光スポットのほかにも戦跡の場所などを伝えています。一人ひとりが改めて平和について考えて欲しいです。それが平和への大きな1歩につながると思います。
平和大使を務めて変わったこと
 「平和」という言葉に敏感になり、平和について自問自答する機会が増えました。平和とは何か、考えるたびに答えは変わります。それは、今、自分が平和な環境にいるからなのだと思います。平和大使は、平和と戦争について目・耳・肌で感じることができる貴重なチャンスです。ぜひ、多くの方に経験して欲しいと思っています。

核兵器廃絶平和都市宣言(昭和60年6月28日決議)

 戦争の惨禍を防止し、世界の恒久平和と安全を実現することは、人類共通の念願である。
 わが国は、世界唯一の核被爆国として、再び地球上にあの広島、長崎の惨禍を繰り返させてはならない。
 また、わが沖縄県は、第二次世界大戦において、悲惨な地上戦を体験した唯一の県である。
 平和の尊さと戦争の悲惨さを身をもって体験したわれわれは、世界のすべての国に対し、二度と戦争を繰り返してはならないことを訴えると共に、そのことを子孫に伝えねばならない。
 よって沖縄市は、日本国憲法の恒久平和の理念に基づき、核兵器の廃絶を誓う全世界の人々と相携え、人類の恒久平和を実現することを決意し、ここに核兵器廃絶平和都市を宣言する。

コザ運動公園に建てられた平和モニュメント
コザ運動公園に建てられた平和モニュメント

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