今月の人

こども達の笑顔が宝物

238. 喜友名 朝得さん(64)

山田 七海さん

 沖縄東中学校の陸上外部コーチを九年間務め、見事、沖縄東中学校を中頭地区中学校陸上競技大会八連覇という快挙へ導いた。その間ずっと選手たちを温かい目で見守り続け、やる気を起こさせ、実力を発揮できる選手に育て上げてきた。今月はそんな喜友名さんに陸上競技への思いや、子供たちへの思い、今後の展望などについて話を聞いた。

 この笑顔を見て、なんて素敵な笑顔だと思わないだろうか。一目で喜友名さんの人柄が伝わってくるようである。この笑顔から伝わってくるように、沖縄東中学校の陸上外部コーチとして九年間選手達を温かく見守り続けてきた。その結果が中頭地区中学校陸上競技大会八連覇の快挙である。

 そんな喜友名さんは、小さな頃から足が速く、学生時代は駅伝の選手として活躍し、高校二年生の時に東京オリンピックのエチオピアのマラソン選手アベベの走りを見て衝撃を受け、本格的にマラソンの練習を始めた。若い頃は仕事の合間をぬって毎日十五キロも走っていたという。今でも市民マラソンに出場し、おきなわマラソンには連続二十回出場しているとのこと。

 在職中から、いつかはこども達を選手として育ててみたいと思っていたが、ちょうど退職した時期に、末っ子の通う沖縄東中学校の運動場で陸上部が練習しているのを見て、知り合いの子に声をかけるとアドバイスをお願いされた。それがきっかけで、その後、
九年間外部コーチを務めることとなった。

 喜友名さんの指導方針は、ガミガミ怒るのではなく、選手たちのいいところをほめて育てることである。選手自身に目標を持たせ、試合に出場させるなど活躍する場を作ってあげると、こども達は、おのずと目標に向かって練習し、頑張っていくそうだ。

 この九年間で育てあげたこども達とは毎年年賀状を送りあうなど今も交流を続けている。高校の大会で自己ベストを出した時など、ちゃんと報告に来るそうだ。そんなこども達の笑顔が喜友名さんの宝物である。

 去年の十二月に念願だった自身の陸上クラブを立ち上げた。東部地区の小・中学生を対象としている。メンバーはまだ五人しかいないが、三年後には大会で好成績を残せる選手になるだろうと期待している。また、部活をやめてしまった子の居場所作りにも協力したいと考えている。メンバーは随時募集中なので、興味のある子は連絡してみては。
おきなわJRC TEL〇七〇‐五四八七‐五三〇〇

▼戦後文化シアター 今月のヒストリート

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孤児院内の第四小学校で体操するこどもたち
▲孤児院内の第四小学校で体操するこどもたち

 沖縄戦の終結から今年で六七年。昭和二〇年三月、沖縄にも戦の波が押し寄せてきました。激しい艦砲射撃の後、四月一日に米軍は北谷〜読谷の海岸より、無血上陸を果たし、三日までには沖縄市の泡瀬まで進攻しました。

 米軍は沖縄本島を二分し、本土進攻に向けての飛行場建設計画をたて、難民収容所を設置し住民を中北部へと移動させました。いち早く占領地域となった沖縄市の嘉間良には「コザキャンプ」が建設されました。焼け残った民家を利用し、本部事務所、配給所、区役所、警察署などが置かれ、養老院や孤児院もありました。

 六月には村長選挙が行われ、七月に三つの小学校が開校し、八月には孤児院内にも四番目の小学校が開校しています。当時の新聞には、四〇〇名余りの孤児が収容されていたとあり、その中で栄養失調や寂しさのために衰弱して亡くなっていく子どもたちも数多くいたようです。収容所や孤児院で亡くなった人々をキャンプ内に埋葬していましたが、その後、葬られた方々は沖縄市の納骨堂に移されています。

 今回、ヒストリートUでは三月七日〜四月一日まで「戦世の子どもたち〜コザ孤児院〜」の企画展を開催いたします。多くの皆さまの来室をお待ちしております。また孤児院に関する情報もぜひお寄せ下さい。