特集このまちを考える

人と人のきずなでまちがにぎわう、みんなこのまちが好きだから、ちょっと立ち止まって、このまちのことを考えてみよう

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 大型店舗等の進出で地盤沈下減少を起こしている市内の商店街。目立つシャッターの下りた通り、増加する空き店舗。全国の多くの都市と同様に高齢化といった社会情勢変化、郊外部における市街地化の拡大、さらには近隣市町村への大型商業施設の相次ぐ出店など、まさに郊外型大型店舗のあおりを食らうかのように、厳しい状況が続いている商店街。「まちの活性化」「相乗効果」「再生」など、さまざまな言葉が飛び交う中、その再生の道はどこにあるのだろうか。腕をこまねいてみているわけにはいかない。今こそ市民一人ひとりが、このまちについて考えるときにきている。今月号は「沖縄市中心市街地活性化基本計画」にスポットをあて、まちの活性化について考えてみたい。

商店街を歩いていると時々こんな声が聞こえてくる「昔はここらへんは人が多くて、すごかったのよ」

 沖縄市内の商店街は戦後、ゲート通りの第2ゲート付近に点々と店が集まり、やがて胡屋十字路方面へと広がっていったという。

 それから、どんどん店は増え、現在の商店街の形を成してきた。やがて、一番街、センター商店街、サンシティ、ゲート通り、諸見里などに商店が並ぶ。また、胡屋に対しコザでは一九五二年にコザ十字路市場組合を結成、やがて、本町(ほんまち)通りが出来、七十二年に合併。銀天街商店街と名称を変えた。

 一番街は軍用地返還後の昭和三十年に小売業者がゴヤ中央市場を設立、その後、アスファルト、街路灯などが整備され、組合員も増え、胡屋中央商店街に名称変え、沖縄市が誕生すると同時に沖縄市一番街と改称、市の商業の中心地として発展してきた。

 BC通りとも呼ばれたセンター通りは基地の街とともに繁栄、発展していったが復帰後は円高・ドル安や周辺の商店街の近代化の影響を受け昭和五十三年に法人化、沖縄市センター商店街振興組合が発足した。

ライブハウスから聞こえるギターの音色、風に乗って聞こえてくる太鼓・三線の音、このまちの明日はなんの音色が聞こえてくるのだろう

ライブハウスや個性ある店が並ぶパークアベニュー
▲ライブハウスや個性ある店が並ぶパークアベニュー

 昭和五十七年のアーケード、カラー舗装後に改称したのが沖縄市サンシティ商店街振興組合。その前身は、ゴヤ中央商店街やゴヤオリオン通り会。それから、嘉手納航空隊第2ゲートから胡屋十字路までの間に自然発生的にできた通りが当時のゲート通りで、昭和三十一年に沖縄市空港通り会を結成、市空港通りと名乗っていたが、六年前に改めてコザゲート通りに名称を変えた。そして、昭和二十八年に胡屋十字路のアスファルト舗装が完了し、設立したのが胡屋大通り会。また、昭和四十一年に日の出通り会として長年継続してきたが通りの舗装などを整備、平成十年に沖縄市コザパルミラ通りに改名、十五年にコザ中央通りに改称。十六年六月に再度、市コザパルミラ通り会に改名した。さらに昭和六十二年の海邦国体のパレードの実施に伴う記念に街路樹が設置された。それを機にコザショッピング通り会が結成された。

庶民の台所、高齢者が集う憩いの場(銀天街商店街)
▲庶民の台所、高齢者が集う憩いの場(銀天街商店街)

 当時はどの商店街も人々が行き交い、買い物客が店に来て、立ち話をして買い物をして帰って行った。商店街からは笑い声が絶え間なく聞こえた。商店街は憩いの場だった。活気があった。売り手と買い手は勿論、客同士も顔なじみだった。にぎわいがあった。まちは交流の場だった。

 それから、数十年がたち、時代とともにまちも商店街の形も変わっていった。増えていく空き店舗とともに目立つシャッター。近隣市町村への大型店舗の進出や長引く不況で衰退を余儀なくされている商店街。

 全国的にも大規模集客施設の郊外立地等により「まち」は郊外化し、中心市街地の居住人口の減少、中心市街地のコミュニティとしての魅力低下、中心市街地の商業地区が顧客・住民にニーズに十分対応できない状況にあるなど、中心市街地の衰退も進みつつある。

諸外国の特産品を扱う専門デパートとして異彩を放つプラザハウスショッピングセンター諸外国の特産品を扱う専門デパートとして異彩を放つプラザハウスショッピングセンター
▲諸外国の特産品を扱う専門デパートとして異彩を放つプラザハウスショッピングセンター

 このような状況のなか、平成二十二年三月に「中心市街地の活性化に関する法律」という規定に基づき沖縄市が策定した「沖縄市活性化基本計画」が全国で百番目、沖縄県内では初の認定を受けた。

 沖縄市の中心市街地は、戦前までは農業を主な産業とする農村地帯であったが、旧越来村における終戦直後に建設された嘉手納基地の門前町として形成されたのが契機である。

 昭和二十五年より本格的な基地建設工事が始まり、工事の下請けや作業員に沖縄の人が大量に雇われ、いわゆる軍作業として北は奄美諸島から、南は与那国にいたるまで、相当の雇用機会の創出があった。また、この頃、米兵を相手にした商売が盛んになり、各地からの移住者が増え、特飲街や商店街が形成されていった。

おしゃれな衣料品店など若者向けの店舗も増えてきた一番街
▲おしゃれな衣料品店など若者向けの店舗も増えてきた一番街

 また、同じく二十五年に米兵を顧客とする商売が米軍政府の指定場所で許可されるようになり、軍道13号線沿い(コザ十字路からコザ高校付近)、24号線沿い(コザ十字路から胡屋十字路)、5号線沿い(第2ゲートからプラザハウス付近)が指定された。この商業指定によって、軍道沿い(現在の330号線沿い)に店舗が張り付く帯状型の市街地が形成された。本市の市街地は現在も国道330号に沿って、当時の名残りある外国人相手の店舗や外国人経営者による店舗、数々の商業店舗が張り付き、またその周辺には公共施設をはじめとするあらゆる都市機能が集積した沖縄市の中心(顔)としての役割を担っている。