今月の人

第五回世界のウチナーンチュ大会でテーマソングを歌う

234. 山田 七海さん(14)natchy(なっちい)

山田 七海さん

 世界のウチナーンチュが五年に一度集まる大きなお祭り「第五回世界のウチナーンチュ大会」でテーマソング「ニライの彼方」を歌うnatchyこと山田七海さん。彼女は沖縄東中学校に通う現役の中学生だ。歌手になることを夢見て活動してきた彼女が、ウチナーンチュ大会の開会式で歌うという大役を任された。今月は七海さんに開会式への意気込みと、今後の歌手活動や夢について話を聞いた。

 natchy(なっちい)こと山田七海さんは小学生の時からとても目立ちたがり屋な子供で、お笑い芸人を目指し友達とコンビを組んだりしていた。そんな彼女がテレビで歌手の絢香が活動休止をすることになり「みんな空の下」をアカペラで歌っているのを見て涙が止まらないほど感動し、「歌」ってこんなに人の心に響くものなんだ。自分も絢香のような人に感動を与える歌手になりたい。と強く思ったとのこと。

 そこからの彼女の行動がすごい。彼女というよりも彼女のお母さんがすごいのだが、七海さんが歌手になりたいというのを聞き、度胸をつけるため、北谷の観覧車の下でアカペラで歌わせたのだ。まだ小学生の彼女が、たくさんの人がいる中一人で歌うのはかなり勇気がいることであり、最初は躊躇(ちゅうちょ)していた七海さんも、これぐらいの事ができないで歌手になれるはずがないというお母さんの言葉に、勇気を振り絞りストリートで歌い始める。慣れてくると楽しくなり学校が終わると北谷に行き週に3,4回も暗くなるまで歌っていたとのこと。

 ストリートで一年ほど歌っていた時に沖縄国際アジア音楽祭・musix2010に応募し、ステージで歌声を披露した。その時の彼女の歌声を聞いた現在の事務所の社長にスカウトされ、夢見ていた「歌手」への道を歩み始める。今年の三月には念願の初CDも発売し、今回、第五回世界のウチナーンチュ大会のテーマソングを歌うという大役を任された。そのテーマソング「ニライの彼方」は作曲家の新垣雄さんが、世界各地で頑張っている沖縄関係者と七海さんの声をイメージして作り、歌には世界平和を願う気持ちが込められている。七海さん自身もたくさんのウチナーンチュの心に残るような歌を歌い、今回の大会を一緒に盛り上げていきたいと意気込んでいる。今後は、自分に夢を与えてくれた絢香のように、自分も誰かの目標とされる歌手になれるよう頑張っていきたいと力強く語ってくれた。

 彼女のライブが十一月六日北谷で開催予定である。皆さんもぜひ足を運んでみては。

▼戦後文化シアター 今月のヒストリート

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避難先の教室で食事をとる人々1971年7月
▲避難先の教室で食事をとる人々1971年7月

 「きょう毒ガス/補償費支払い」
 一九七一年十一月一日、琉球新報の見出しです。同日、沖縄タイムスには「毒ガス移送の新聞配達少年/兄弟ともに表彰」の記事で、毒ガス移送期間中、人々が避難して閑散とした集落を、せっせと新聞を配達した兄弟を取りあげています。

 知花弾薬庫内に「毒ガス」が貯蔵されていることが発覚したのは六九年七月。人道的にも国際法としても使用が禁止されている毒ガスの貯蔵に驚愕した屋良主席(当時)は高等弁務官に厳しく抗議し、また撤去を求める県民大会もひんぱんに行われました。しかし、移送先や移送ルートの選定など難題が多く、ジョンストン島への移送が完了したのは二年後(七一年九月)でした。

 弾薬庫から天願桟橋までの移送車が通る沿道付近の住民は万一に備え避難生活を余儀なくされ、冒頭の新聞見出しはその間の生活補償費をさしています。

 七〇年十一月に戦後初の国政参加を果たした七人の県選出国会議員たちも、移送や避難に伴う補償について、国会で政府の対応を質しています。

 地域住民を否応なく巻きこんだ「毒ガス移送」から四〇年。

 ヒストリートUでは、避難の様子などの写真をはじめ、関係資料を展示します。

 住民は何を考え、どう行動したのか、また(琉・日・米)政府の対応など様々な角度から見直し、米軍統治下にあった沖縄を検証したいと思います。

 「毒ガス移送」に関わる皆様の体験談などもお聞かせ下さい。ご来室をお待ちしております。