今月の人

沖縄市からプロボウラーが誕生しました!

231. 高良 宏也さん(35)(右)
与那覇 徹志さん(25)(左)

高良 宏也さんと与那覇 徹志さん

 本市出身の高良宏也さんと与那覇徹志さんが去る五月に開催された日本プロボウリング協会主催のプロボウラー資格テストで見事難関を突破し合格の快挙を成し遂げた。沖縄市からプロボウラーが誕生するのは初めてのことであり、また県内でも十五人しかいない。

 今月はお二人に現在の心境やボウリングへの思い、今後の展望について聞いてみた。

 プロボウラー資格試験は、四日間連続、一日十五ゲームを投げ、平均スコアが百九十五を超えないと合格できない。またその試験を二度行うという超難関な試験である。二人は晴れてその試験に合格しプロボウラーになった。

―ボウリングを始めたきっかけは

高良 親がボウリング場を経営しているので小さなころから投げていた。本格的に始めたのはここ十年くらいである。

与那覇 十八歳のころからボウリングを始めた。自分は経験も浅くボウリング歴も長くはないが、県外のボウリング場で働いていた時に目の前でプロの試合を間近に見ることができ、勉強になった。

―プロボウラーになって

高良 自分のライセンス番号(千二百六十番)を見てもわかるとおり、上には千二百人もライバルがいるので、しのぎを削っていかないといけない。これからも上を目指していきたい。試合に出るためにはまず予選を勝ち進み、また上位にならないとテレビ中継もないので、テレビ中継されるようになるよう頑張りたい。また、自分のことだけではなく、ボウリングを通して地域活性化の手助けもしていきたいし、子供たちにプロとしてのレッスンもしてあげたい。

与那覇 プロの世界に入ってから厳しいこともわかってきた。トーナメントで活躍したい気持ちももちろんあるが現状的に厳しいので、プロとしても頑張っていくが、まずは地元沖縄で子供たちにボウリングを通していろいろ教えるなど、地域活動に貢献していきたい。

 両人とも試験の前には一日十五ゲームを投げ抜く体力をつけるために毎日二十ゲームも投げていたとのこと。今後は自分達がプロになったことをきっかけに、ボウリングに注目が集まりボウリング人気が活性化していくきっかけになればと期待している。沖縄はまだまだプロボウラーが少なく、また遠征費等の金銭面でも厳しい状況なので、今後はスポンサー探しや、後輩が育ちやすい環境整備のバックアップなどにも協力していきたいと語ってくれた。みなさんもいざボウリング場へ!

▼戦後文化シアター 今月のヒストリート

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ベトナム帰休兵1969年
▲ベトナム帰休兵1969年

 去る七月二三日〜八月七日まで、奈良女子大学で「沖縄の戦後と女性のくらし」と題した企画展が開かれた。古都奈良にも存在した米兵相手の歓楽街を紹介しながら、沖縄市と奈良市の戦後史を見つめる機会としたのである。会場は、本市の「ヒストリート」が提供した生活道具や写真資料、報告書などが所狭しと並べられ、多くの観客を魅了した。

 奈良市の歓楽街は、一九五二年、朝鮮戦争の帰休兵のために設置された休養・回復施設「RRセンター」に原因する。同センターの周辺にはバーやキャバレーが出現し、そこで働く三〇〇〇名にも及ぶ女性、客引き、帰休兵で溢れかえったという。米兵の落とす金で活気を呈した街も翌年には閉鎖され、すでに人々の記憶の中の風景として残ったのみで、一帯は今、当時の面影はまったくない。

 沖縄で本格的な基地建設が始まった一九五〇年代、本市には八重島、センター通り、ゲート通り、照屋などに米軍・軍属相手の歓楽街が次々と形成されていった。六〇年代になると、基地のまちは、戦場という極限状態から、大金を手にした多くのベトナム帰休兵らで賑わった。が、やがてオフリミッツ、Aサイン制度、円高、大型店舗の郊外進出などに翻弄され次第に衰退していく。

 嘉手納基地の門前町として個性的な歴史・文化を蓄積した沖縄市。奈良とどこが似て、どこがどう違うのか。この夏、大きなテーマ をまた一ついただきました。