今月の人

沖縄市の子どもたちをずっと見守ってきました

231. 町田 妙子さん(80)

町田 妙子さん

 昭和三十一年に諸見小学校付属幼稚園に最初に勤務してからずっと、沖縄市の幼児教育に携わり、現在は沖縄市青少年育成市民会議の副会長や大学の非常勤講師、学校法人沖縄中央学園の名誉校長を務める町田さん。現役を退いた現在も現場の先生からアドバイスや協力を求められ力になっている。そんな町田さんに幼児教育への思い入れとその重要性について話を聞いた。

 沖縄県は公立の幼稚園が当たり前にあるがそれが珍しいことだということをご存じだろうか。県外では幼稚園は公立ではなく高いお金を払って通う私立がほとんどだそうだ。一説には戦後米軍統治の名残という話もあるが、その幼稚園での教育の重要性についてはあまり知られていないのではないだろうか。町田さんはその幼児教育に長年携わり、子ども達の成長を見守り、これまでたくさんの後輩の先生方を育ててきた。

 町田さんが最初に勤務したのは、昭和三十一年諸見小学校付属幼稚園。その後、中の町小学校付属幼稚園では十六年間勤務する。町田さんの名付け親でもあり、沖縄で最初の幼稚園の先生でもあった、「沖縄社会福祉事業の母」島マス先生が、町田さんが幼稚園の先生になったことをとても喜んでくれたことが、町田さんの励みになった。その後小、中学校の教諭免許も取得したが、教育の基盤である幼稚園教育から離れることができず三十五年間、幼稚園現場と沖縄県や沖縄市の教育委員会で幼稚園の指導にあたった。

 幼児教育の重要性はいろいろな研究で明らかにされている。たとえばある少年院に入所している青少年の幼児期の調査を行ったら、ほとんどの青少年が幼児期の生活に問題があったとの報告がなされた。また、教育基本法の中でも「幼児期の教育は生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものである」と示され、幼稚園は法律の中できちんと「学校」と定義されている。

 町田さんによると、人間を木にたとえて、幼児期は木の根っこの教育と言われ、根っこがしっかりしていれば美しい花が咲き、素晴らしい実ができるといわれているが、実際にその通りだと思うとのこと。

 町田さんは退職後も幼稚園の新採用教員研修指導員を務めたり、青少年育成市民会議で青少年育成にあたっている。現場の先生から直接助言を求められ実際に幼稚園に行くこともあるそうだ。子ども達も町田さんにはすぐに心を開いてくれるらしい。やはり子どもには、町田さんの優しさが全身からにじみ出ているのがわかるのだろう。

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第1回全島エイサーコンクール
▲第1回全島エイサーコンクール

 沖縄の夏の風物詩エイサー。太鼓の音を聞くと胸躍るという方も大勢いるのではないでしょうか。

 戦前も各集落でエイサーは行われていましたが、沖縄戦により中断しました。

 戦後、早い地域では一九四〇年代後半からエイサーが復活。太鼓が足りないのでジェリカン(水缶)を叩きながら旧盆の集落を練り歩きました。娯楽の少ない時代、演じる側も見る側も楽しみの一つでした。

 一九五六(昭和三一)年八月二六日、コザ小学校で第一回全島エイサーコンクールが行われました。朝早く全島から見物客がつめかけ、三万人もの観衆の中、九団体がエイサーを披露しました。

 同月はプライス勧告に反対した報復として、中部地区に無期限のオフリミッツが発令されており、コザ市のみ一週間程で解除されますが、七月にコザ村からコザ市に昇格したばかりの市にとって、このコンクールはよどんだ空気を一掃し、街を盛り上げるものとなりました。

 地域の活性化を目的にしたコンクールでしたが、翌年にコザ小学校の隣に慰霊塔が建立されると、慰霊祭を兼ねた奉納エイサーコンクールとして開催されます。

 第二三回からは「エイサーまつり」へと移行。沖縄市は四年前に「エイサーのまち宣言」を行い、今年6月にはモニュメントも建立し、エイサー文化の継承・発展と共にエイサーのメッカとして地域活性化に向けて様々な 取り組みを進めています。

 懐かしのポスターを展示中。必見です!